|
|
【へ】
塀を取り 心合わせて 恩返し |
|
|
一般的に言われている人間の視点は、個人的視野が基本になっています。 しかしこの視点には個人の感覚差があり、複数人が同じ風景や情況を見ていても、形態が同じであるにも関わらず、感性の違いによって捉え方に個人差が出るのです。 これを人は色眼鏡と揶揄しますが、その揶揄を飛ばす本人でさえ固定観念で観察している訳で、結局は色眼鏡の範疇を越えていないのが現状なのです。 この色眼鏡とは何か…。 ここを精査しなければ、永遠に心の本質が理解されないまま、同じ課題の下に転生を繰り返すことになる。 視点が歪んだまま固定観念になってしまうと、人生は総て歪んで見えるのですが、その歪みを本人が気付かないまま生きている人が大半ではないでしょうか。 これは時代通念にも責任はありますが、あくまでも個人の視点は個人の持ち物です。 自分自身で色眼鏡(視点感覚)の曇りを拭き取る努力が大切であります。 個人的な視点に偏りがある理由は、本人の拘りから凝り固まった自我の偏見であり、ここに心の病が見え隠れしています。 我欲の強い個人主義者が平和を提唱しても、それは我欲者自身の自己保存欲(我欲心の多占有)から出た言葉であり、広く大衆を視野に入れた考えではなく、平たく説明すれば自己都合が視点の中枢に居座っています。 おそらく彼は大半の平和の為に自分の不利益を置き換えることは難しいでしょう。 歴史上の偉人の中には自己犠牲を厭わず、一人でも多くの人々を救わんと立ち上がった英雄が居たはずです。 彼等の色眼鏡(個性)は純粋無垢で、我欲の汚れを振り払いながら使命に邁進した方々でありました。 こうした話は自己犠牲を推進している訳ではありません。 むしろ人のために一命を投ずる覚悟がある者は、努めて自己限定の殻を破って、心の瞳を清浄化する必要があると言いたいのです。 自分で自分の心を正確に把握(客観視)出来ない者は、自らの心に憑依する悪想念の正体を見抜けないのです。 悪想念は知らず知らずのうちに視点を歪めてきます。 その微妙な変化に気付くためには、自己限定(拘り囚われ)を打ち破る必要がある。 そうした純粋無垢な心の瞳になってこそ、始めて本当の愛が理解出来るのです。 その時に始めて何を為すべきかが正確に観えてくるのであります。 |
|