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【ぬ】
脱ぎ捨てよ 欲に紛れる その前に |
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人間には慣れというものがあります。 この慣れ親しみは、身体的なものから精神的なものまで、幅広く奥深く機能しています。 喜怒哀楽に於いても同じ感情の中に安住すると、その習慣を麻痺させて物足りなさを感ずるようになります。 だからこそ人は悲しみからも立ち直れますし、苦しみを乗り越えることも出来るのです。 しかし喜びや楽しみに慣れ親しみ過ぎて、その物足りなさを埋め合わせるために、病的な執着となって欲望追求に溺れる人も多いはずです。 古来より執着は、喉の渇きを潮水で癒やす行為に例えられてまいりましたが、潮水を飲めば飲むほど喉の渇きは減るどころか増すばかり…。 執着に溺れるなら終わりの無い喝欲に取り巻かれるのです。 行き着く先は地獄であると、多くの導師が警告を発していた執着の恐ろしさであります。 この執着は苦難悲哀の方向に深まることは少ないです。 なぜなら人は身体的・精神的な辛さを嫌うからです。 しかし厄介なのは喜楽の方向に執着が向かうと、その心地良さにドップリ浸かって、安住でも決め込むかのように、執着の微温湯から出て来ない人も多いはずです。 本来の慣れ親しみは、人間の無限生長を後押しするために、現状維持を良しとはしなかった創造の大神が、人間の心に附帯させた処方箋の一つだったのです。 創造の大神は決して人間に完璧を望まず、個性化に於ける色合いとして現状の成果を共に喜び讃嘆されますが、そのままの状態で長居することを良しとはされなかったのです。 創造の大神は声なき声で語りかけています。 《貴方よ、目先の成果を素直に喜びなさい…》 《そのまま喜びを他者とも分け合いなさい…》 《その喜びが本物であれば現状には満足せず、次のステップを踏み締めなさい…》 喜び楽しみを私利私欲のままで終わらせようとしないで、その幸福感覚を他者にも分け与えよと、創造の大神は人間に対して愛念を投げ掛けているのです。 人間にとって本当の幸せとは何であるか…。 それは幸福感覚を一人占めして逃がさぬように幾重にも身に纏った衣服(執着)を脱ぎ捨て、他者にも分け与えながら同じ幸せを共有すること。 ここに真実の愛が何であるかの解答が隠されているのであります。 |
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