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【ら】
楽酔えば 理性失い 情もなし |
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人間の魂が感ずる心地良さには、無限の喜びと永遠の安らぎがあります。 この心地良さは、実は既に与えられている…。 創造の大神から枝岐れた(分身分霊)生命の実相を悟れば、この身このままで既に総てを与えられている存在が、自分の本来の姿であると実観するのです。 しかし創造の大神は大調和であるとともに大繁栄でもある。 幸福感覚を実観しながらも進化発展に向かってこそ、人間は本来の神の子の自覚を取り戻すのであります。 喜びも楽しみも大いに浸って良いのです。 悦楽は魂の箍を緩め、砂漠の中のオアシスのように、渇いた心の大地に聖水を満たしてくれる。 しかし其の侭ではいけないのであります。 身体に良いとされる栄養分は、過多摂取すると身体に良くない作用を起こしてきます。 良薬も過剰摂取すると反作用を起こして体調を害するのです。 自己陶酔(悦楽)の怖さはココにあって、喜び楽しみに溺れると自己統制が効かなくなります。 何事も程々の所で切り上げて、次のステップを踏み出す意志が必要であります。 ここにも心の法則が作用していて、自らの心を客観視出来なければ、現在只今の自分の状態を把握出来ないため、心の衝動(悦楽状態)をリセットする意思さえ出ないと言うことです。 自己陶酔には様々な種類があり、それぞれに危険性の度合いがあります。 大方の自己陶酔は五官(味覚・臭覚・聴覚・視覚・触覚)の感覚を麻痺させる方向性があり、悦楽方向に感覚が麻痺すると物足りなさを感じて、ここで意思が弱いと悦楽の度合いを増すことになる。 こうして見ると依存症は心の病であると言えるのであります。 感覚を良くも悪くも操作するものは本人の感情です。 すると心の調律(感情のコントロール)が出来なければ、感覚依存の衝動を抑えられなくなるのは当たり前で、心の内部に潜む利己心の魔(悪癖を正統化する誘引意識)に誑かされて、罪を罪とも思えぬ悪業を繰り返すことになる。 もうここまでくると自己中心(自己中毒)の権化であります。 |
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