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02 こせい (自己確立) |
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人は何のために生まれてきたのか、また何ゆえに生きているのか…。 これらの人生の意義を考えたことがある人は、けっこう多いのではないでしょうか…。 しかしその解答を導き出した人となると、本当に一握りの人間のみに限られてまいります。 この人生の意義を見い出して生きるのと、見えないまま生きるのとでは、大げさではなく天地ほどの差が出てくるものなのです。 それだけ人生の意義を見い出すことは至難の業なのでしょう。 謙虚の徳性の中の『こせい』という徳目は、この人生の意義を見い出すための徳目です。 さらに人生の意義を深め広げたならば、本来の魂の純粋個性まで導き出すことになるでしょう。 この純粋個性を見い出した者は、ある種の悟りを開いた境地ではありますが、それでも小乗の悟りであり、個我の悟りの段階です。 しかし人はこの『こせい』の徳目を通さずには、本当の自らの使命役割を担ってはゆけないのです。 他者に押し付けられた使命役割ではなく、自らの意志で見い出した使命役割であるからこそ、本人の主体性において全責任を負えるのであります。 そうした強き人生観を構築するために『こせい』の徳目が用意されているのであります。
まず『こせい』の徳目を育んでゆくための取り掛かりは、自らの興味関心を見い出すということです。 これが初期段階になるでしょう。 自分にとって特に興味を引くものは何だろうか…。 関心が湧くものは何だろうか…。 どのような書物を好んで読んでいるだろうか。 どういった音楽に心惹かれているだろうか。 いつも好んで食べているものは何だろうか。 どのような言葉や信条を気に入っているだろうか。 どんな人を理想とするか…。 こうした自分にとっての興味関心は、生活全般を見渡す習慣があれば自ずと見えてくるものなのです。 様々な好みを自由奔放に選べるはずの自由人間が、なぜ一定の物事に引かれるのか…。 ここに人生の秘策が隠されています。 この人生の秘策こそ、人間が地上に生まれ出る前に自らの人生に隠し込めた気付きのエッセンスなのであります。
さらに次の段階があります。 例えば赤という色が自分自身だとします。 この赤色が無色の環境の中にあれば赤色のままの自己表現が出来る…。 しかし青色の環境の中に入れば、赤と青が混ざり合った紫色となります。 すると自分のカラー(赤色)は紫かと思えたりもします。 また環境を変えて黄色の環境の中に入ったなら、今度は茶色になります。 この茶色のみに囚われたなら、自分のカラーは茶色かと思うかもしれません。 けれどもここでよくよく環境の意味あいを見渡せば、紫色の環境と茶色の環境での相違点と共通点を見渡して分析すると、自分はもっと違った色合いではないかと感じても可笑しくはありません。 さらに複数の環境における経過と結果を見れば、ことさら鮮明な色合いが見えてくるはずです。 こうした幾場面においての環境や境遇から、自分の人生や個性を逆発想することが可能であるはずで、こうした運命の逆発想を試みてゆくのが、『こせい』の徳目における二段階目のステップになります。
さらに次のステップに入ります。 自らの興味関心、そして環境や境遇から何かしらの気付きや共通項が見えてきたなら、次の段階として、この地上に生まれ出てから現在に至るまでの半生を、こと細かく見つめてみるのです。 過去を振り返り思い出すことは、通常は難しいことかもしれません。 なぜ難しいかというと、記憶の中には人生途上においての衝撃的な思い出が幾つかあり、とても思い出したくないような不運なものから、いつまでも忘れたくない幸運なものまで、多種多様であります。 こうしたインパクトの強い記憶が、かえって反省回顧の邪魔をして、その記憶以前の数々の思い出を遮っているのです。 ゆえに自らの興味関心、環境や境遇から見い出した自らの色合い(性質)を知っておかないと、人生を振り返ったとしても、インパクトの強い思い出に足止めをくらって、いつまでたっても肝心な達観が出来ないということです。 この生まれてから現在に至るまでの人生を正確に辿って蘇えらせると、今まで見えなかった驚くべき事実が浮き彫りになって、ことごとく確認できるようになります。
このように『こせい』という徳目ひとつ取ってみても、並大抵のものではなく何度も何度も反復して違った観点を投入しながら、より深い本来の純粋個性を見い出してゆくものなのです。 そうして使命役割の質も、回を重ねるに従って、より一層の高尚な尊い役割が見えてくるのであります。 短期間で簡単に人生を悟ったように豪語する迷妄者も後を絶たないのですが、短期間で悟れるような人は、もともと高次元霊であるがゆえに、その悟りの高さなりの人生を生き、その深さなりの人類救済を確実に実践され、確かな実績を残して行かれるのであります。 いたずらに悟ったと誤解せず、小さな善人で終わることなく、着実に一歩一歩悟りの階梯を踏みしめる心持ちを失ってはならないのであります。 本当に『こせい』の徳目を積み重ねている人であるならば、現状の悟りに満足せず、たんたんと小悟を繰り返し、大悟を重ねるのであり、あろうことか自己吹聴に走るような人は一人もいないはずです。 この『こせい』の徳目を蔑ろにするような人が陥り易い底無し沼は、過信・盲信・慢心です。 これらの底無し沼に嵌まり込むと、少々の説得では耳を傾けず、他者の進言など聞く余地もなく、過てる方向へ盲目のまま驀進する、視野の狭い迷妄者に成り下がります。 |