07 もとめ

(克己精神)

 

『天は人の上に人を創らず。人の下に人を創らず…』

これは明治の文豪、福沢諭吉が遺してくださった聖言です。

基本的人権としての生命の尊さを推し量るならば、すべての人は分け隔てなく平等であります。

これが真実であり、神の意志であるはずです。

しかしもう一面があります。

これは魂の境涯において、その努力の度合いに応じて、真実の愛や真実の叡智を実現させた実践に伴なった過程と結果を見渡せば、ここにもまた新たな聖言が生まれてまいります。。

『天は人の上に徳を創り、人の下に教導を創りたもう…』

これを徳育といい、徳性開発といいます。

学問を推進された福沢諭吉の功績は、当時の全ての階級の壁を通り越して、多くの人々の心に学徳の必要性を植え付けることに成功し、その後の近代化に大いに貢献されました。

この学問の普及に伴なって、さまざまな分野が急速な進化を遂げたはずです。

個人の範囲で見ても、学校教育が果たしてきた成果は、誠に大いなるものであります。

昨今では教育の有り方を疑問視する風潮が多いですが、根本的な教育の有り方じたいは間違ってはいません。

ただ惜しむらくは教育の中から徳育が失われたことが悲しむべき現実ではなかったでしょうか。

学問の効用は、徳育無くしては本来ありえないのです。

福沢諭吉の『学問のすすめ』は、徳育をもって完成するはずでした。

 

『もとめ』という徳目は、もともと人間の内部に具わった克己精神が、その基(もとい)になっております。

己に打ち勝つ心…ここに学徳を積む根本理由があるのです。

ただ闇雲に知識だけを読み集める人も稀にいますが、こうした人の性質は、学問というよりは知識欲なのです。

この知識欲の正体は、多くの知識を身に付けていないと不安でしかたがないような恐怖観念や、何かを身に纏っていないと落ち着かない焦燥観念であります。

戦国武将が重い鎧で身を固め、敵の襲来や流れ矢などから身を守る行為に似ております。

または極度な損得感情であり、よりよい知識や、より多くの知恵を持っていた方が得だと勘違いをしております。

さらに餓鬼的な貪欲感情であり、常に新しい知識を得ていないと心が不足を感じてしかたないのであり、こうした知識空腹に耐えられず、貪欲に知識を貪る歪んだ精神が知識欲の正体であります。

またこうした集積知識に深い洞察が無いまま新たな知識を求めるため、浅はかな知識栄養しか感じられず、深い知覚や満たされた知徳を感じられないのであります。

そのうえ浅はかな得度のままで溜め込んだ知識が、本当の真理を受け付け難い障壁になっているようです。

『もとめ』の徳目を育む人は、こうした知識欲を戒めなければなりません。

徳性開発に臨む者であるならば、集積した知識を捨てる必要はないが、いつでも一旦は白紙状態に戻せるような心掛けが、『もとめ』という徳目のスタートラインになります。

 

『もとめ』という徳目を育む者は、集積した知識を捨てる必要はないが、いつでも白紙状態に戻せる心掛けがスタートラインであると語りましたが、なぜそうなのかと言いますと、古い知識の余分な壁が、いつも新たな学びの邪魔をするからです。

『あの先生は、あのように言ったから…』とか、『あの本では、あんないいことが書いてあったから…』とか、『古い聖典によれば、それは当て嵌まらないから…』と、悉く新たな教えを排除して、つまるところ自分が信奉する方向にしか知識を求めようとせず、その深い真理が新しい学びの中にも隠されていることに気付かないまま、興味関心のない新たな教えを削除する傾向があります。

これを先入観といい、固定観念とも言いますが、こうした邪な観念が深い真理への求めを邪魔立てしていることに気付くべきなのです。

ここに学びという姿勢の中に、『熟成』という要素を取り入れなければならない…。

今まで得てきた知識は、料理に例えれば食材程度の意味合いでしかないが、それを熱したり混ぜ合わせたり、煮たり焼いたりしながら美味しい料理を作りあげれば、この上ない心の糧(知恵)を抽出して、美味しい食事(真実の叡智)を戴けることになるのであります。

新たな知識は新たな知識として素直に取り込み、その後に古き知識と接見をさせ、相互の共通点や相違点を点検し、栄養分(新価値)を加味しながら両者の整合性を練り上げてゆくべきなのです。

 

多種多様なる知識も、立場や視点が違えば、様々な意味合いを見せてくるもので、これら幾種の知識も熟成して整合性を練り上げてゆくわけですが、この熟成された新たな知識を、本当の智恵へと変換するためには、その知識の効用を検証してみる必要があります。

製薬会社では、新たに作り出された特効薬も、市販される以前には、長い時間をかけて動物実験から人体実験を通して、何度も効用の検証を繰り返すのです。

それは人の命に関わる仕事だからです。

徳性開発も同様で、死の淵に傾きかけた心を救済するために、段階的な処方箋を徳目として提示するからには、何度も何度も検証を重ねたのです。

こうした姿勢は、個人の人生観にも十分に当て嵌まり、自分一人だけが居なくなっても誰も悲しまない…とか、自分一人が死んでも社会は何も変わらないから…といって、自らの命を軽んじる若者も多いが、人間世界で生きるかぎり、たとえ死を選んでも、その死体を清掃処理する人や、当人の社会的仕事や人間関係の中で、どうしても関わっていかざる負えない人も多数いるのであります。

自分だけが…という狭い了見こそ、克己精神をもって打破してゆかなければならない…。

 

『もとめ』という徳目を育む者は、得てきた知識、熟成された智恵をもってOKとしてはならないのです。

徳の無い者ほど増上慢に陥り、意味の無い力自慢に走るのであります。

『汝自身を知れ…』『無知の知を知れ…』

ソクラテスが常々口にした聖訓は、現代にこそ如実に当て嵌まります。

どれほど自分が立派になったと見えても、その集積した知識、熟成した知恵は時代という大海の中での、一掬いの海水でしかないということです。

こんな少量ほどの一掬いの海水(知恵)のみで喜び、哲学の巨人にでもなったのだと自惚れる小人にならぬように…。

真智の大海には制限がないことを十分に心得ながら、地道に学徳を積み重ね、知識の熟成を深めて下さい。

それでも哲学の巨人を目指したいなら、集積した借り物の知識のみに頼る偽者の巨人(真なる覚者からみれば遠吠えの小人)ではなく、探求の余地を無限に見い出す本物の大巨人を目指して下さい。

『もとめ』の徳目においても終わりはなく、これは一生涯(実は霊界でも…)続く徳目であり、有限なる地上世界にありながら、永遠の観点に立って地道な努力を続け、有限なる肉体生命の死に際して、志し半ばで去って行く哲学者こそ、本当の栄誉を与えられるべき哲学の大巨人であります。

 

 

 

16 徳性開発 【謙虚】