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08 ようき (陽明精神) |
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古事記・日本書紀の高天原神話によりますと、天照大御神の岩戸隠れの件には大変貴重な真理が書き残されています。 この詳しい内容は新創世記(第26巻)に譲るとしても、ここが今回の『ようき』の徳目の基礎に当たる部分なのであります。 近年とみに普及され、語られるようになってきた光明思想なるものが、日本においては神代の時代に既に捻出されていたのです。 この思兼神(おもいかねのかみ)によって編み出された光明思想は、時代の遍歴とともに進化して、近代的な光明思想に生まれ変わりました。 神代期における光明思想は、実は陽明思考(ようみょうしこう)と言われたほうが妥当だと想えます。 その理由を加味しながら『ようき』という徳目の説明を進めてみたいと想います。 ちなみに陽明思考は天照大御神の御教えであり、その対極にある陰明思考は月読命(つきよみのみこと)の御教えであります。 そうしてかつて消えかけた日本神道の正真理(神道…かんながらのみち)が、近代において光明思想として復活したわけですが、この光明思想は多くの誤解曲解に歪められて、本来の正しい神ながらの道(神道)に迷妄の霧を煙出させてしまったのです。
陽明思考の枝葉にあたる部分に、プラス思考やマイナス思考があります。 またはネガティブ思考やポジティブ思考がありますが、とかく人は、これらの思考形態を白黒善悪の枠に選り分けて、片や善きもの、片や悪しきもの…と、誤った選別をしがちであります。 結論から言えば、どちらも必要なのです。 そのどちらも人生航路の荒海を乗り越えてゆくための、重要なアイテムなのです。 こうしてみれば逆説も当然のように出てまいります。 やはり使い方しだいでは、どちらも人生破滅の道へと引きずられるものでもあります。 プラス思考を、まるで避難所のようにしか思っていない人が多いのも困ったもので、彼らには自己反省の習慣が無いばかりか、反省そのものを足枷のように歪めて解釈しております。 自己反省なき者に、明るい未来はありません。 自己反省そのものが、自身の心に蔓延った迷妄や暗雲を払い除け、陰りの多い人生から日の当たる場所(人生)へと導く、正しいツールなのです。 この自己反省に当たる心構えが、皆さんがよく口にするマイナス思考・ネガティブ思考に該当いたします。
『ようき』の徳目において、プラス思考(ポジティブ)は新たな局面を始める原動力としても重要なものですが、時おり道程を振り返って、成果の確認をしなければならないのです。 ここにおいてマイナス思考(ネガティブ)が重要になります。 結果オーライで何でもOKという気持ちで、正しい反省が出来るでしょうか。 ワガママ一杯に生きてきた人が、自分の好き勝手(自己中心)に生きてきた人が、自らの過ちを正しく裁けるでしょうか…。 おそらく自分流に肯定して、その言動を改める余地すら見出せなくなるでしょう。 プラス思考(ポジティブ)が重要な、もう一面があります。 それは人生の暗雲に取り巻かれた時に、身動きが取りづらくなった時に、それでも何らかの役割(責任)を果たさざる負えない時に、そしてその役割が個人のみではなく、不特定多数に関わる仕事であるならば、現状の辛さ苦しさを引きずりながらでも、ある一定の期間(水準)までは、苦しいなりにも進まなければならない時もあるでしょう。 こうした時の応急処置としてはプラス思考を使わざる負えません。 しかしこれが、ゆめゆめ応急処置であることを忘れてはならないのです。 仮にプラス思考で苦境を乗り越えられたとしても、根本治療なき応急処置は、いつかまた同様な苦境に攻められるでしょう。 しかも敵(苦境)は更に大軍を率いて迫ってきます。
陽明思考とは『太陽の心』であり、陰明思考とは『月の心』であります。 太陽は総てを照らし育み導いて、大きな愛情で微細な物事にまで接してまいります。 その愛は分け隔てなく、熱と光を供給し、総ての生命の向かうべき方途を示しています。 月は夜の闇の中で太陽の光を反射して地上に届け、月齢(月の満ち欠け)を通して人々に段階的思考の大切さを教えているのです。 どんなに辛い事物の中にあっても、今はまだ力量が乏しくて乗り越えられなくとも、徐々に段階をへてステップUPして、元なる太陽の心を取り戻してゆきなさい…と、その満ち欠けを通して教えているのです。 本来は誰もが太陽の心を持っています。 その太陽の心こそ、人間の本来の姿であります。 しかし人間は時に心を曇らせて、本来の自分を見失ったまま悶々と悩みの淵に沈み込むため、時には鏡を覗き見るように自分の心をチェックして、自己反省しなさいよ…と、天照大神は、月という心の鏡の象徴を用いて、真理を伝えておられるのであります。 このように陽明思考と陰明思考は表裏の関係にあって、本来は一つのものなのです。
プラス思考(ポジティブ)もマイナス思考(ネガティブ)も、陽明思考も陰明思考も、陽と陰とに選り分けてありますが、どちらの面も重要であるが、使い方(生き方)を誤ると、そのどちらであっても破壊・別離・我欲…等の暗黒思想に迷い込んでしまいます。 ちなみに暗黒思想の中にも一抹の真理は見い出せるでしょうが、それはもともと暗黒思想は光明思想の影の部分であるからです。 ですから@時期A場所B人間…の三相がピッタリと兼ね合った時のみ『善』とされるということです。 しかし暗黒思想の場合は、とくにB人間の部分に病んだ精神が多く、その殆どは独我(独占欲)に色取られた黒灰色の思想であります。 光明思想は本来は如来の法であり、高次元意識が光一元・善一元を、威厳を持って振り降ろす神剣であります。 地上人が思い付きで安易に体現できるような代物ではないのです。 仮に地上に光明具現が展開したなら、それは地上人間の力量ではなくて、神霊界から助力として降り注がれた光明霊光の成せる御技なのであります。 ゆえに光明思想を体現せんとするならば、やはり地道な普段の努力(徳性開発)を怠りなく続け、『ようき』の徳目を基礎的精神として育み続けるべきなのです。 光明思想によって人生に大鉈を振るえるのは、まさに体現者のみであります。 この大神直伝の剣を扱いこなせる人徳者を導き育てることが、徳性開発の本意なのであります。 |