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09 ろんり (人生設計) |
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人として地上に生まれ、さまざまな人生を生き、そしてやがて肉体生命の死を迎える…。 永遠なる人間の魂が有限なる肉体に宿って、数十年の人生を生きるためには、そこに何かしらの目的目標が隠されていると想って間違いないでしょう。 人間は赤ちゃんとして生まれた時点で、一旦は過去世の記憶を失います。 まれに記憶を失わずに生まれ出た人がいても、霊界と地上界との波動のギャップに呑まれるうちに、急速に過去世の記憶は薄れていきます。 地上界に生まれるということは、そういうことなのです。 それを承知で皆が地上に出てくるのです。 誰もが地上に生まれる前に、天国で事前にそれを知っていたとするならば、自分で自分の将来(地上に生まれた後の…)において、何かしらの気付きを何かに託してきたとしても可笑しくはないでしょう。 それを本人の魂の傾向性と合致しやすい環境や境遇、人間関係や興味関心の中に託してきたとする方が納得できます。 そうであるならば、自分の人生を振り返って冷静に見渡してみれば、何かしらの足跡から逆算できるものがあるということです。 これは『こせい』の徳目にて語った内容でもありますが、人間の表面意識の記憶力には限界があり、すべてをありのまま蘇えらすことは難しいのです。 そうした観点に立って『ろんり』の徳目において人生の記録を残し、その記録を見事に読み解き、抽出した金の糸を縫い合わせて、自分なりの人生観を構築してゆくべきなのです。
『ろんり』の徳目には、本人の文章力を育むという意味合いも込められています。 文章力は、書く習慣を付けることによって徐々に深まってゆくものなのです。 食わず嫌い…という言葉は、文章力にこそ当てはまります。 とにかく書けばよいのです。 書き続けることです。 一字一句を連ねることです。 誰に見せるでもなく、何に評価してもらうものでもないので、自分で後から読めるような文字であれば、誤字でも脱字でもミミズ文字でも崩れ文字でも何でも結構です。 要は書き残す習慣そのものが、『ろんり』の徳目を育む金字塔だと想って下さい。 これは難しい書式も文体も要りません。 自分なりの言葉で、自分なりの素直な気持ちを日々の日記にでも綴る気持ちでよいのです。 何百字・何千字とノルマを決める必要もなければ、あえて漢字を用いなくともよいのです。 『ろんり』の徳目の基礎に当たるものは、とにかく書くということ。 日々書き残すということ。 その習慣を魂の傾向性にするということ…。 取り掛かりは毎日一行でもいいのです。 毎日5行づつでも、10行づつでも構いません。 自分が極力、毎日続けて書き残せる数量だけ、地道に書くということです。 やがては徐々に物足りなくなって自然と書く量が増え、自然に文体も整い、貴重な人生の気付きが散りばめられてゆくことでしょう。
文章を書くといっても一日に行ったことや、人と交わした言葉などを思い出さなければならないわけで、何日も前の記憶を思い出すだけでも頭を捻ってしまいます。 なおさら半年・一年前の想い出などは、インパクトの強い記憶でないかぎり、すでに蘇えらせることなど不可能になっているはずです。 ですから最初は日記のようなスタイルで書き始めることをお薦めします。 そして自分の体裁や照れや、何かへの(誰かへの)遠慮も必要ないので、その時点で素直に思ったままを書き残すことです。 それはまるで自分の今日一日を、もう一人の自分が、映画でも観ているかのように、そのまま書けばよいと想います。 そこに自分なりの意見や補足を加えてもよいし、そのままの感情をぶつけてもいいと想います。 それらの書き残した文体や内容も、後々は自分で振り返って見た時に、当時の大まかな心境や細部に至る精神状態を、客観的に読み解く材料になるからです。 人はリアルタイムに自らの言動の善し悪しを判断しづらいもので、ましてや感情的になりがちな時は、ほぼ自分自身など見えていないものです。 ですから冷静に自分の記録と対峙できる心境になってから、見直すことも可能なので、書き残された日記の内容から人生を読み解くのは、後からでもよいのであります。
日記のように書き残された人生の断片は、後々冷静に見つめ返したならば、驚くほど的確な真実を物語ってまいります。 それが今までは分からなかった自分の性格であったり、偏った好みであったり、いつも同じ言動を繰り返していた何かであったり…。 何らかの傾向性が、ありありと見えてくるはずです。 そうした中に、地上に生まれ出る前に本人が用意してきた、気付きの数々を見い出すことにもなるわけで、その見い出した共通点(強いては魂の傾向性)を自分なりに組み合わせて、自分史としての人生観を構築してゆくのであります。 ビジネスの世界では、一種の成功体験として、企業のトップが演壇に立ち、生い立ちや信条などを講演する機会が多いと想いますが、そこまで行かないにしても、将来の若者たちの克己心や開拓精神、ユートピア精神、愛国心、人類愛…等の心を育むために、自らの人生体験を通して、何かしらの参考になればよいと想います。 辛く苦しい人生でさえも、その中に流れる金の糸(智恵や教訓)を手繰り寄せることにより、何処かの誰かの生き甲斐や遣り甲斐として、相手の心に小さな灯火を燈すこともありえるのです。 こうして生きた教訓は、次代、次々代へと継承され、愛は永遠に循環してゆくのであります。
皆さん、考えてもみて下さい。 歴史上に残された偉人たちの人生を…。 彼らの輝いた人生に触れることによって、苦境から立ち上がれた人たちが無数にいるということを…。 そうした偉人たちは未来の子供たち、若者たちを救おうと想って人生を生きたのでしょうか…。 そうではないはずです。 なぜなら偉人と称される方々であるからこそ、凡人以上の苦境に立たされていたからです。 けれども彼らは諦めなかった。 人生を捨てなかったのです。 その精神が、その心意気が、その姿勢が、導きの後姿となって、次代の人々に受け継がれたのではないですか…。 ましてや歴史上に名も残さず、儚く去って逝った隠れたる偉人も存在したはずです。 彼らの見えない偉業は、いったい何だったのでしょうか…。 どうか、どうか、人は一人で生きているわけではないということを深く自覚され、貴方の人生は、貴方の夢追いは、もはや貴方だけのものではなく、これから生まれ育ってくる子供たち、人類を背負って立つであろう若者たちの希望の灯台でもあるということを、ゆめゆめ忘れないでいて下さい。 |