16 楽観思考

 

人生は一度しかないから、この人生を十分に楽しんで、やりたいことだけをやる…と、こうした言葉を今だによく聞かされます。

まさに楽観的な思考に聞こえますが、ここでちょっと待って下さい…。

楽しみながら生きるとは、どういうことか…本気で考えたことがあるかどうか…。

楽しむということは何をもって楽しむと言えるのでしょうか…。

この答えは実は千差万別で、人の数だけの回答がありえます。

個人的な楽しみの範囲や深浅は、本人にしか解からない領域です。

ある人は人生そのものを楽しんで、ある人は仕事に楽しみを見い出し、またある人は遊びに楽しみを置いている。

さらにこうした人がいるかもしれませんが、他人を陥れることが楽しみだという人や、人の不幸を楽しんでいる人もいるはずです。

楽観主義者そのものが、どのようなものを楽しみとするか、何をもって良しとするかで、この楽観主義そのものの価値は、善にも悪にも転がるということです。

徳性開発において語られる楽観主義が、こうした個別の楽しみを説くようなものではない…ということを始めに言っておかなければならないでしょう。

人生に対して後ろ向きな人が楽観主義を扱うと、もう何でもありの迷妄道を進んでしまいます。

しかもこの迷妄道は下り坂となっている。

その下り坂は止まることを知りません。

行き着く先は底の無い地獄です。

こうした間違った楽観主義は、何処が可笑しいのでしょうか…。

それはその楽しみが今現在の楽しみとしてしか感じられないところに原因があるのです。

徳性開発に臨む者の楽観主義は、夢の達成にこそ楽しみがあるのです。

その夢に一歩一歩、限りなく近付く中に、小さな喜びを感ずるのであります。

それゆえに、ここでいう楽観思考なるものは、日々の徳育を臨む者のみに当て嵌まります。

日々コツコツと徳育を積み重ねるからこそ、ほんの小さな成果でさえも喜ばしいのであります。

さらにまた日々地道に徳を積んでいる人を時には凶弾したり、本人の主観による歪んだ価値観で裁いたりする人も出てくるでしょう。

そうした心ない言葉に、時に的を突かれて胸が痛くなり、その後の歩みが萎縮してしまう場面も考えられます。

そうした時にこそ、楽観思考が生きてまいります。

現在只今の自分の力量では太刀打ち出来ない大きな壁であっても、これからまたコツコツと取り組んで最後まで諦めなければ、いつかは活路が開かれるであろう…。

今は何をやっても上手く行かなくとも、地道に修練を重ねれば、いつか必ず人生の達人になれるだろう…。

こうした希望的観測は心ない言葉の数々の効力を失わしめるでしょう。

 

その昔、仏陀が悟りを開く間際に、悪魔(波旬…はじゅん)が現れて、仏陀めがけて毒矢を放ったといいます。

しかし毒矢は仏陀に近付くに従って綺麗な花に姿を変え、かえって仏陀を美しく飾ったということです。

悪意に満ちた心ない言葉が、たとえ自分に毒矢の如く放たれたとしても、その事実を素直に受け留めて、自らの弱さを再確認したなら、その弱点をこれからまた一つ一つ克服してゆこうとする姿勢によって、心ない言葉は何時しか自分の心を強固に育てるための美しい花(心の糧)となりゆくのです。

ですから精神的に辛い時期であればあるほど、それらの困難が、将来の夢の達成のための道しるべだと、甘んじて受け留めて困難と戯れる心持ちこそ、徳性開発における楽観思考であるということです。

 

 

 

16 徳性開発 【謙虚】