22 創造思考

 

鬱病患者を見ていると、思考そのものが止まっているのではなく、その思考が自分を中心にして極度の不足感・否定感に囚われていることが分かります。

自分にはあれがない、これがない…。

だから何も出来ない。

楽しみがない。

喜びがない。

だから何もしたくない。

おそらくその不足感・否定感は、さらに深まると被害者意識の権化のようになって、狭い穴倉の中から恨めしく社会を覗き見するような、陰湿なものになりがちであります。

彼らに本当に足りないものは他者を想う気持ちなのです。

もともと躁鬱は病気ではないのです。

よくよく観察すると、躁も鬱も根底には極度の我心(自己中心)があるだけです。

この我心を躁の人が自己表現すると自分勝手な思い上がりとなり、鬱の人が自己表現すると悲観的見解となるのであります。

ここで考えなければならないことは、この我心(自己中心)とは何ぞや…ということです。

この我心の正体は、たんに『わがまま』であったりします。

『わがまま』というのは我(われ)が思うまま…ということで、幼い子供が自分の想いどうりにいかないことに癇癪を起こして泣き喚く行為そのものです。

それが大人になってからは、無闇に癇癪を起こせないし、周囲にワガママを押さえられて萎縮した子供のままの心は成す術もなく、鬱状態に入り込むのであります。

躁状態は、この鬱状態の反動であって、本質的には同じ根っこをもっております。

この我が思いのまま…という子供のままの自己中心を想い返して、周囲の人たちに対する配慮を考えた時に、躁鬱病は霧の如く消滅してゆきます。

その時に何もすることがないという言い訳は出てこなくなり、何かをしてあげたいという建設的な気持ちが芽生えてまいります。

古事記の神話によりますと、黄泉国から逃げ帰ってきた伊邪那岐神は、後から追い駆けてくる黄泉の大群(誘引)から逃れるために、黄泉平坂の出入口を大岩で塞いだのです。

すると追い付いてきた黄泉大神が、大岩の中から最後の脅迫をするのであります

『伊邪那岐神よ、あなたが大岩を取り除かなければ、今後一日に千人の、あなたの子供たちの命を絶ちますよ…』

すると伊邪那岐神は聖言をもって斬り反しています。

『それならば私は一日に千五百人の産屋を建ててみせる…』

たとえ千人の子供たちを殺されても自分はそれを上回る千五百人の子供を産み出してみせると、伊邪那岐神は言い放たれたのです。

生命の流れ、人間の精神は本来は永遠不滅でありますが、この物質肉体的三次元世界は有限の世界です。

しかも生命の息吹きが抜け去ると、残された物質肉体は時とともに朽ち果て、根本原子は宇宙の要素に還元されていきます。

こうしたことから見ても人生生活において、何も成さざるままの現状維持は無いということ、現状維持のために停滞した途端に、物質世界の孤立分解の流れに流されて、生命道としては退歩しているということです。

この退歩の流れを悔い止めるためには、少しでも多く前進しなければならない。

黄泉大神の破壊と消滅の恐怖に打ち克つためには、少しでも多くの前向きで建設的な精神を出してゆくべきなのです。

何もすることが無いのではなく、何を成すべきかを考えるべきです。

建設的な精神を打ち出すということは、今現在において自分の心境でも出来ることから、小さなことでもよいので始めようとする心持ちではないですか…。

高望みすれば何も出来ない自分しか思い付かないが、小さな小さな一歩でいいのです。

その一歩は次なる一歩を見い出させるでしょう。

つねに新たなものを創み出し作り出す心持ちを忘れないでいただきたい…。

 

 

 

16 徳性開発 【謙虚】