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26 根っからの悪人は居ないが、 生粋の善人も居ない… |
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人間関係には誤解や曲解が溢れている。 この理由は、偏見に満ちた先入観や、凝り固まった固定観念で他者を見て、その言動を独断で決め付ける人が多いからである。 この誤解を埋め合わせるものが会話である。 話し合いを通して相手の気持ちを知り、自分が今まで持っていた相手への所感を逐次、修正するための会話であり歩み寄りである。 しかし厄介なのは曲解である。 どのように細かく説明しても、その本意を捻じ曲げて解釈する人が後を絶たない…。 こうした曲解の手ぐすねを引いているものが、本人の主観に頼りすぎた先入観である。 これは簡単に言えば決め付けであるが、彼は何故ここまで剛情に決め付けるのであろうか…。 そうした彼が他人を見る場合、おそらく大半は善と悪との大枠に篩い分けられている。 白黒を明確にしないと判断できない硬い頭のままで、『あの人は善い人だ…。この人は悪い人だ…』と決め付けて、その主観による評価は変更の余地がないほど偏見に満ちている。 ここで先ほどの疑問点に話を戻すが、なぜ彼は、ここまで剛情に決め付けるのであろうか…。 それは彼の言うところの善悪の基準が、外見から見た形(見た目)を重視しているからである。 その内面にある複雑な想いが推測できないからである。 もともと根っからの悪人は居ないのである。 悪を重ねるには、それなりの理由があるのだ。 それとは逆に生粋の善人も居ないのである。 人間は完璧ではないから、時には失言もするし、時として不本意な行動も採らざる負えない…。 こうした心の内面を見ない(見ようとしない)ならば、偏見でしか他者を見分けられない人たちは、外見で善悪のケース分けをして、その分類で他者を選り分けるしか手立てはないのである。 『何故…』という推測、『どうしてだろうか…』という洞察を、習慣として持つ以外に解決は難しいのである。
かつて文献を賑わした性善説や性悪説は、何を根拠に説かれたのか…。 もちろん天国に帰れば善人として明言できるであろうが、また人間の我欲を見れば、本来の人間の性(サガ)は悪人なのかとも思えるかもしれない…。 いま霊性を踏まえた21世紀を生きる皆さんは、ここで深く善悪の本当の意味合いを探らなければならないだろう…。 善とは何ぞや、悪とは何ぞや…と、善悪の根本真理を掴まなければならないのだ。 モーゼの十戒には善悪の基準が書かれている…。
@われは唯一の神である。 A偶像を拝むなかれ。 B無闇に吾が名を呼ぶなかれ。 C安息日を守れ。 D父母を敬え。 E殺すことなかれ。 F姦淫するなかれ。 G奪うなかれ。 H偽るなかれ。 I貪るなかれ。
殺すことなかれ…戦争で勝った国は、この罪を何とするか。 奪うなかれ…悠久の昔から存在する大地を我がもの顔に占有し、自分の土地だと公言することを誰が許したのか。 姦淫するなかれ…婚前行為・売春・不倫、どこまでが善とされ、どこまでが悪となるのか。 偽るなかれ…真実を知らされたばかりに失望落胆の淵から出てこれない人も居るのである。 貪るなかれ…願望追求の中には、時に人類の未来を開かしめる力も隠されている。 こうした基準は、時と所と人によって、基準そのものが変えられてきた歴史であったはずなのだ。 こうした観点で善悪の基準を見渡したならば、究極の善・究極の悪は、単なる決め付けでは語りつくせない問題なのである。 その時代において、その場所(地域)において、そこに住む人々の総意が、はかなくも善悪の基準を決めてきたのである。 よって個人的な偏見で善悪を決め付けることが、どれほど精神レベルが低いかを知るべきなのである。 人間は多くの人間と関わり合いながら生きている。 つまり相互に何かしらの影響をしているということである。 争いごとに100%の潔白や悪根がありえるであろうか…。 恐怖の殺戮を犯した凶悪犯罪人でさえ、社会風習が歪んだ情報発信を繰り返すことによって育てた部分も多いのだ。 その享楽に満ちた情報を垂れ流して、そのまま放置した責任は誰にあるのか…。 こうした根本理由をこそ紐解いて、今までウヤムヤなまま仮初めの善悪を規定してきた過ちをこそ、現代は改めてゆかなければならないだろう。 |