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01 え (縁起) |
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廻り逢いは奇跡。 これは必然という名の奇跡です。 あたかも偶然のように出逢った二人が、なぜか始めて会った気がしないということが、人生にはたびたび遭遇するという事実は、誰もが感じていることでしょう。 縁の深い人とは、どんなに離れていても引かれ合うように出逢ってゆくし、縁の浅い人とは、いつも身近な社会に存在し合っていても一言も言葉を交わさず、名前すら知らないままの隣人も居るはずです。 運命の糸は、距離も時間も関係なく張り巡らされ、自分自身がこの地上に生まれ出てから、廻り逢うべき人たちとの繋がった金の糸を、誰もが心の手に握りしめて生きております。 その運命の糸を手繰り寄せるときは何時なのか…。 その方法は何であろうか…。 それを意図的に見い出すことは不可能であるのか…。 こうした疑問も少なからず抱かれるのではないでしょうか。
調和の徳性の中でも、縁起(えにし)という徳目は、特別な意味あいが込められています。 この縁起の神秘が紐解かれたならば、人生の謎解きが明かされるでしょう。 それだけ重要な項目であります。 運命は、あるいは未来は、見えないからこそいいのだという人もいますが、こうした言葉は、霊性の開かれた21世紀以降の人たちからすれば、自分の将来が見えない者の負け惜しみ程度にしか聞こえないでしょう。 もはや運命は恐るるに足りません。 運命は徳性開発においては、十分に逆発想してゆけるものだということを、徐々に皆さんも知ることになるでしょう。 そうしてこの知るということが、自発的な思慮実践を通して自覚の域に達し、さらにこの自覚が深まってゆくはずです。 調和の徳性の中の縁起(えにし)という徳目は、人間関係を通して、運命の中に込められたエッセンスを抽出しながら、運命の糸を自らの意志で手繰り寄せてゆく作業をすることになります。
人との廻り逢いには本来は偶然というものはありません。 すべてが必然であり、出逢うべき人であるからこそ廻り逢ったのです。 それはたとえ顔を見たくないほど嫌悪感の走る相手であっても、何も理由なく行き会うことはないということ…。 むしろ嫌悪を感じる相手だからこそ、貴重な教材として見せられているのかもしれないのです。 反面教師として自身の心を戒めるために、あえて対面させられている場合も多いと想います。 それは自分の心の内部に残されていた業の浄化のために、そのような境遇を体験していると考えた方がよいかもしれません。 業の流転は人(相手)を介し、所(環境)を介し、時代を介して学び合う、尊い魂の課題なのであります。 たとえば現在、同じ境遇の中に廻り逢っている様々な人々の中には、尊敬に値する人もいれば、軽蔑に値する人もいると想いますが、尊敬に値する人となら生まれ変わっても同じ時代を共に生きたいと、素直に想うのではないでしょうか。 それとともに軽蔑に値する人とは二度と顔も見たくないと想っていても、ひとたび自分の心境が高まって、相手の気持ちや背景(その人を、そのように育てた背後関係)を考慮した時に、親しい友人では言いづらいことまで、相手はズバリと言ってくれたわけで、通常では仲良く過ごしたかったであろう相手は、あえて悪役を自主的に行ってくれた尊い人物として、その配役を演じきって下さったのであります。 そのために普段は自分でも気付くことのなかった心の歪みが、相手の苦言でマジマジと気付かされたのかもしれません。 物事には総て多面性があり、必ずそれなりの理由が隠されています。 それを苦言を浴びせた相手は気付かせてくださったのです。 こうして外見上は善人であれ悪人であれ、人間関係の中で魂の学びに繋がらない廻り逢いは一つも無いということであります。
運命を嘆くあなたよ…。 不遇を託つあなたよ…。 自らの周囲(環境)に悪態を付いている間は、あなたは環境の奴隷であるのです。 責任転嫁をしているだけでは、自らの立場が変わることはないのです。 不平不満で変わるような環境には魂の学びは薄いといえます。 たとえその境遇から逃げ出したとしても、新たな逃避地において、また同じような境遇に苛まれることになるでしょう。 なぜならその境遇を作り出している原因が、外部の境遇にあったのではなく、自分自身の内部にこそ根本原因があるからであります。 縁起(えにし)という徳目を磨けば、人間関係はキラ星の如く輝くでありましょうが、どういう訳か、何処へ行っても、誰と知り合っても、摩擦が絶えず争いが避けられない人は、他者を責める前に、自らの内面を顧みる必要があるのです。 それは自分の思いの方にこそ問題点があるからです。
縁起(えにし)の徳目の基礎には『おもい』の徳目があります。 ここにおいて基礎の軟弱な『縁起』が崩れ易い理由が語られてまいります。 人間関係に悩む人こそ、本来の『縁起』の徳目を積む以前に、『おもい』の徳目を日々磨いてゆかなければならないということです。 この謙虚の徳性の中の『おもい』という徳目が基礎的な根を張ってこそ、始めて『縁起』という徳目が正常に育まれてゆくのであります。 自分勝手な解釈のみで、良好な人間関係が築けるものではないということを知らなければならないでしょう。 根の浅い樹木は倒れ易いし、基礎の脆い建物は崩れ易い…。 基礎的精神を普段の努力で継続するからこそ、地上の樹木は活き活きと麗しく繁茂するのであります。 ここにこそ運命の開拓は果たされるのであります。
人は相手の人間性を見るときに、自分の経験則から相手に似通ったタイプを重ね合わせます。 この時点で囚われや拘りが強いと、どうしても先入観で相手にレッテルを貼りがちであります。 『おもい』という徳目は、この主観(先入観)を克服するために重要不可欠な徳目であります。 この先入観のまま相手の人間性を見るならば、相手はその偏見(先入観)以上でも以下でもないわけで、たとえその先入観を越えた性格を出しても、レッテル(先入観)という色眼鏡の前には、虚しい努力にしか見られないでしょう。 こうした場合は、まだまだ『えにし』の徳目を積む段階には達していないということです。 『おもい』の基礎的徳目を再び磨いて、主観の克服に努めるべきなのです。 この『おもい』という徳目は永遠に磨きつづけるもので、そうした自助努力の延長線上に、次なる段階である『えにし』の徳目があると心得なければならないのです。
あの人は何故あのような言葉を自分に浴びせたのか…。 あの言動は如何なる背後関係があったのだろうか…。 いったいどのような人生を辿ったならば彼のような言動となるのであろうか…。 こうした根本原因の詮索は、先入観で決め付けるだけでは決して見えないものなのです。 自己内部洞察は、精神世界を垣間見る行為なので、形に拘った私(視観)では既定できないものであります。 相手の人生観を正しく見い出せる者は、それ以前の問題で『おもい』の徳目において、すでに自らの人生観を正しく見い出した人であるはずです。 こうした観点からみても『縁起』という徳目は、その深まりに限りがないし、その悟りの領域にも極みがないということです。 そうしてこの限りなく極みなき無限生長への道に入ってゆくためには、小さな個人としての個性を超越して、自らの守護霊との対話が始まるのであります。 |