02 け (献身)

 

献身的に生きるということは、どういうことでありましょうか…。

これはひとえに人のために生きるということであります。

人の幸福のために身を捧げて、ほんの少しでも貢献させていただくということであります。

しかしここで間違ってはいけないことがあります。

ここで語られる献身という徳目は、自己犠牲的精神ではないということです。

高邁な目的目標のために、または神の栄光のために、自己を犠牲にするということを古き時代は尊ばれてまいりましたが、はたしてその自己犠牲を、神々は本当に喜ばれたでありましょうか…。

大神は自らの栄光のために、可愛い神の子たちに自己犠牲を強いるでしょうか…。

そうではないのであります。

身を捨てて取り組む姿勢は尊いですが、自も他も生きてこそ、本当の献身となりゆくのではないでしょうか…。

 

調和の徳性における『献身』の徳目は、それだけ高い徳目段階にあるということです。

たんに自己を差し出すのみであるならば、いまだ謙虚の徳性の中の無我献身の境地であるわけで、その無我献身の境地においては『ほうし』という精神を育んだ段階にあるということです。

しかし調和の徳性における献身の徳目は、たんなる奉仕のみではなく、自己の個性を最大限に生かして、他者を善なる方向へ導く使命があるということです。

ゆえに献身の徳目において、大きな障害が現れてくるとすれば、他者から見た表面的解釈による誤解曲解であるでしょう。

人を本当に生かすためには、優しい言葉だけでは本来の生長にそぐわない場面も出てくるでしょう。

 

親が子供を育てるときに、優しさだけで褒めてばかりいては、子供は自分の甘えを克服できないまま成長し、世の中の荒波を耐え忍ぶ精神が軟弱なまま生きてゆくことになります。

人を生かし育てるということは、時には自分の評価を落としてでも伝えなければならない時期もあるということです。

その時に自己評価ばかりを気にするようでは、未だ謙虚の徳性すら育まれていないと自省しなければなりません。

さらに相手を本当に生かすためには、その上に自分も生きるためには、自らの個性が何たるかを熟知していなければならない…。

自分には何が出来るだろうかと本当に知る者のみが、他者を本当に生かしてゆける人なのであります。

よって『献身』の徳目の基礎にあたる謙虚の徳性の中の『こせい』の徳目を、常日頃から磨いて(磨き続けて…)おく必要があります。

この『こせい』の徳目が心の基礎として礎積されていてこそ、始めて『献身』の徳目は構築されてゆくということです。

自分がいったい何のために生まれ、何ゆえに生きているのか…。

そうした初期疑問(課題)をクリアしていなければ、形だけの『献身』は、自らの浮かばれない気持ちを払拭せんとする慈悲魔のような献身になってしまいます。

慈悲は神の心であり、神の子としては自然な姿ではありますが、それは神の子の自覚があってのことで、人生に迷ったままの姿で本来の慈悲心が遂行されることは難しいということであります。

 

さて『献身』という徳目を内に湛えた人が如何なる人であるかを説明したいと想います。

おそらく彼(得度者)は殆どの人に、その高徳を気付かれぬまま、一社会人として存在していることでしょう。

周囲の人たちのために生き、それでいて自分を託つことをせず、その成果すら私しないで周囲に還元するであろうので、彼の存在は、まるで空気のようでもあります。

しかし空気は肉眼には見えないが、人間の生態活動には欠かせない存在で、ただ人知れず黙々と他者を生かし続けているのです。

そうして彼は、ご自身の課題が、ある一定の水準に達すると密かに卒業を迎え、静かに我が身を必要とする新たな地へと赴くのであります。

ゆえに『献身』の徳目を身に湛えた高徳者は、えてして彼がその場から立ち去った後に、その偉大性に気付かれるということです。

しかし気付いたときには既に遅く、彼(高徳者)は去った後で、その存在の大きさに皆が心打たれるのであります。

彼(高徳者)が在任中に、その徳性の高さを稀に気付く人もいるでしょうが、それを気付ける人は、彼と同じく高い徳性を身に有する人、あるいは高徳を身に就けんと努力精進している人のみで、どことなく人並み以上の非凡さを感じる人は居たとしても、彼(高徳者)の本当の気品、魂の高貴さを見破ることが出来る人は少ないでありましょう。

もうここまでくると直感(感覚)の問題なのかもしれません。

高徳者こそ高徳者を知るということであります。

 

『献身』の徳目を育んでいる人は、それなりの実践を残しているでありましょうが、彼自身に驕り高ぶりが気薄であるがために、それ相応の評価をされることが少ないと想います。

つまりそれだけ『献身』の徳目の重要性を正確に評価できる人が、まだ現代は少ないという悲しむべき現実であります。

これも残念な話ですが、高徳者たちは未だ徳が足らない人々の中でこそ活躍されるわけであって、最初から自己の評価を目で見える形として求めても虚しいだけであります。

時代精神がもう少し底上げされれば、それなりに地上的にも評価されるようにはなるでしょうが、その時期は近々、徳性による黄金期に訪れることになっています。

ここでは少なくとも、高徳者を知るものは同じ高徳者であると肝に銘じて、目先の評価に関わらず、魂の職務を遂行できる徳性を育んでゆくのみであります。

 

 

 

17 徳性開発 【調和】