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03 せ (誠実) |
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誠実に生きるということが誤解されて久しい世の中になっています。 何における誠実さなのか、その誠意とは如何なるものなのか…。 これらの答え合わせを、そろそろ人類はしておかなければならないでしょう。 本来の誠実とは誠を貫くということであります。 誠というものは真実であり、その真実を言葉に発し、行動に移すということです。 誠という文字は、言葉が成ると書いてありますが、言葉を成就させるためには、やはりそれなりの行動が伴なうはずで、この実践行為なき言葉は自己吹聴であり、雑言迷語であります。 誠なき者が言葉を無闇に扱うと、その場しのぎの見解が多くなり、その迷語は整合性もなく矛盾だらけの言い訳にしか聞こえないのであります。 誠を貫いている人が、言葉を発すると、かなりの的中率で的を得た見解になるでしょうし、そうした方は、むしろあまり無闇に言葉を乱用しないものです。 えてして言葉を乱用する人は、未だ真理が何たるかを分かっていない人なのであります。 誠実というものを深め、さらに求めてゆくと、いったい何処へ達するのでしょうか…。
実相そのものが神の存在そのものであり、人間は神の子であります。 つまり誠実であるという本当の意味はココにあるわけで、何に対する誠実さかを紐解けば、間違いなく神の子としての誠実さであるのです。 蛙の子は蛙であり、アヒルの子はアヒル、神の子は、やはり神の子なのです。 神の子として何をどのようにするか…が、常に判断基準となるのであります。 そうして神の子としての立ち居振る舞いが、そのまま誠意となり、その言動が貫かれる姿勢が深まれば、名実ともに『誠実』の徳目となりゆくのであります。 一言で神の子の自覚を深めると言われても、おそらく万民がピンとこないでありましょう。 それもそのはずで、個性として生きている自分の殻(思い)の中に閉じ篭っているだけでは、神の存在すら感得しえないというのが現状であります。 それはそれで良いのです。 むしろ『私は神の意志そのものだ…』と言い放つ人の方が、本当は自分の現状が見えていないということなのです。 この誠実さを本当に見極めるためには、その基礎的努力ともいえる謙虚の徳性の中の『そなえ』の徳目を、常日頃から磨いておかなければならないでしょう。 『そなえ』(創意工夫)失き者が、神の子の自覚を深めているとは言い得ないのです。 それは間違いなく過信であり誤信であります。 なぜなら自由性のある神の存在を、一定の形に閉じ込めた内容でしか把握できていないのであるから、神をそれだけの小さな存在としてみている思いと行為は、魂の境地としてもレベルの低い段階にあるということです。
さて『誠実』の徳目を貫くためには何をどのようにすればよいかですが、具体的に言えば、これは普段の地道な努力の積み重ねであり、コツコツと神の子の自覚を深め、その深めえたものを周囲の人びとへ還元するだけであります。 そしてその想いと行為を持続させることです。 徳性開発において常に大きな障害となるものは、他者からの先入観や偏見による決め付けで、彼らの歪んだ固定観念を打破するためにも、ひたすら善き心の傾向性を現し出してゆくのであります。 ことさら『誠実』の徳目に関しては、歪んだ固定観念者は厳しいチェックを入れてくるでありましょう。 そうそれはまさに重箱の隅を突付くほどの熱心さです。 一点の曇りも許されないほどの狭い了見を相手に、『誠実』の徳目は育まれてゆくことになります。 これは避けられない事実です。 先入観や偏見でしか物事を見れない迷妄者たちを相手に、神の子の自覚を何処まで貫けるか…。 これは大変に苦しく辛い魂修行かもしれません。 イエスキリストが愛の気薄な時代に真実の愛の教えを説いたようなものです。 またソクラテスが徳の低い時代に本当の徳の教えを説いたようなものなのです。 彼らの最期は悲しいものとなりましたが、その高潔な意志(思想哲学)は幾時代も超えて、広く多くの人々にまで行き届きました。 まさに命懸けの人生であったわけです。
調和の徳性は、もはや個人的な生長過程を超越して、公の中での自と他の在り方を学び実践し、育み磨いてゆく段階であるため、それこそ命懸けの徳積みであると想われます。 政治家が誠意を示すためには、やはり政治生命を懸けて取り組むべきですし、企業のトップが誠意を見せるためには、職場生命を懸けて訴え掛けなければならないでしょう。 教師たるものは生徒を正しく導くために人生を懸けて模範となるべきですし、医師たちは人命を救うために、それこそ命を懸けて病魔と闘わざる負えないでしょう。 もはや個人の見解、自分一人だけの好き嫌い、個人的な我が侭などが赦されない段階に入ってくるため、自分自身の甘えにも強くなっていかなければならないのであります。 すべてにおいて『人のため…』に生きる者は、何かしらの貫く意志を心の内部に持っているということであります。 誠実さを貫くために、方や捨てていかざる負えない悪癖や肩書きがあるかもしれません。 時には財産や信用さえも失うことがあるかもしれません。 そうした時に大いなる試しが身に及んでいると知るべきでしょう。 いにしえより愛の教えの中には、富と愛とを量りにかけられたなら、迷わず愛を採りなさい…と。 地位や名誉と愛とを選択肢にかけられたなら、迷わず愛をとれ…と。 愛の大家であるイエスはかく語りたもうたのです。 イエスキリストは誠実の徳目を、最も深く大悟された人類最高の徳者でもありました。 |