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05 ね (寧心) |
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口は災いの元… つねに争いの発端は言葉によるのである。 言葉とは、旧約聖書の冒頭にあるように…。 《初めに言葉あり。言葉は神と共にあり。言葉は神なりき。よろずのものこれによりてなり。これによらでならざるはなし。神『光あれ…』と言いたまいければ光ありき…》 かくのごとく言葉には創造する力があり、現象を顕わす具現力があります。 この具現力は善にも悪にも扱われ、つまるところ言葉を扱う本人の人間性や判断力、記憶力などが大きく影響してくるものなのです。 人生に争い事が多い人は、自分から発する言葉の性質をよくよく吟味しなければならない…。 また同じ言葉によって、愛も平和も実現されるわけで、言葉そのものは創造の神から『自由に使いなさい…』と与えられた一本の剣であるのでしょう。 善にも悪にも使える自由性の中で、どのように扱うべきかは各人に任されているといえます。 つまり言葉の剣を扱う人の性格如何に関わって、その剣が人を生かす活人剣になるか、他者を殺す殺人剣になるかが顕著に現れてくるものなのです。 したがって人の語る言葉を注意深く分析すれば、その言葉の性質によって、その人の人間性や思考の偏り、強いては魂の傾向性までも見抜かれてしまう…。 こうしたことから考えてみても、言葉そのものは扱いようによっては自他ともに活かし、誤って扱われれば自他ともにキズ付けてしまう、いわば両刃の剣であるということです。
古来の日本精神では『言挙げせず…』とよく言われてまいりました。 軽々しく何でもかでも言いふらす言動を戒める言葉でもありましたが、『和をもって尊し』とする大和精神の下では、言葉の乱用による調和の混乱を避けたのであり、言葉そのものを使用するなと限定したわけではないのであります。 時には言わなければならないこともある。 勇気をもって聞かなければならない時期もある。 『聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥』 とも言われるとおり、時を得、処を得て、的を得る場合は躊躇なく言葉を扱うべきなのであります。
『寧心』という言葉は、おそらく現代人にとっては聞き慣れない言葉であろうけれども、それだけ人類にとって言葉というツールが、現代では荒んだ時代になりつつあるということを裏付けています。 孔子は『寧』という教えを特に注意深く弟子たちに伝授されたようです。 それは人生全般が言葉によって構築され、強いては環境も境遇も運命をも規定してしまうことを、孔子自身が深く自覚しておられたからでしょう。 孔子は人類史上最高の高徳者でした。
人間には口が一つしかないが、耳は二つあり、自分が語る二倍は他者の意見を聞き入れられるような構造になっています。 『寧心』という徳目は他者の意見を聞き入れ、それを自らの内部で吟味して、そこから抽出した真実を、時と処と人に兼ね合わせた形で、正しく発現してゆくための精神的努力を育んでゆくものなのであります。
現代では科学の発展に伴なって世の中に情報が溢れ、広く一般市民があらゆる知識を大量に得られる時代になっています。 インターネットの普及は加速度的に行われ、個々人の精神段階に関わらず多岐に渡る情報を手軽に収集できるようになりました。 しかしその知識を扱う人間の能力が追い付かず、知識を深めないまま文字道理にしか扱えない人が増えております。 高い授業料を払ってまで得た知識を自己弁護ばかりに扱い、他者批判の道具にして浅はかな知識を振り回す行為は、その言動において残念ながら精神の低さを本人自身が暴露しているにもかかわらず、当の本人はそれに気付かないまま悲しい愚行を繰り返しているのであります。 知識は何処まで行っても知識に過ぎず、ただ知っているにすぎないのですが、もうそれだけで総てを悟ったように誤解したまま、魂を腐らせる偏屈者も多く排出しております。 集積した知識は心の内部で熟考し醗酵させて、人と時と処において正しく使い分けてゆかなければならない…。 この使い分ける部分こそが、人間の高い知性となって魂は磨かれ、深い感性は育まれ、透徹した理性へと繋がる人徳形成(徳性)になるのであります。 真なる知者は無闇に言葉を振り回す幼稚な段階を一早く脱却して、黙々と『寧心』の徳目を磨くのであります。
『寧心』という徳目は、【調和】の徳性においては、人間関係の深い繋がりに貢献しうるもので、この徳目『寧心』が一般市民にまで普及したならば、地上の争い事が徐々に消滅して、かねてより多くの人々が提唱してきた地上天国が顕現するでしょう。 相手の言葉の揚げ足ばかりとって、浅はかな理解でキズ付け合ってきた幼稚な時代を、そろそろ人類は脱却しなければならないのです。 自己の主張を我欲で押し通す傾向の強い人は、『寧心』の徳目の基礎精神にあたる『のぞみ』の徳目を見つめ返す必要があります。 責任も採れない迷妄者が何でもかでも言いたい放題言う愚行を改め、不言実行(言わずとも黙々と実践を積み重ねる)の良き傾向性を地道に磨くべきなのであります。 |