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10 ゑ (感性) |
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長い人生航路の中では、時おり魂が打ち震えるような感動を得ることがあります。 そこには感謝の心が湧いてきます。 この感動という感情は、個人的な心の動きですが、その心の動きが全体との融合をみるとき、感動は『感性』という統合意識に昇華するのであります。 その空間的領域は無限です。 果てしなく極みなく、行き着く先は神(統合意識)なのです。 つまり『感性』とは個人的意識の感動(魂の響き)が、全体意識の中で響き合う(解かり合う)共通意識であるということです。 もちろん『感性』の基礎にあたるものがあり、それは謙虚の徳性『をつとめ』の徳目です。 この『をつとめ』の徳目が小さな心を開かしめるキッカケとなり、『感性』の徳目が開かれた心を限りなく豊かなものに導いてくれるでしょう。 そこに人間感情が神の世界に通ずるものとして尊ばれてまいります。
逆に心が閉ざされたままの人間感情は冷徹で自己中心に陥り易いのです。 自分のみが喜ぶことしか興味が沸かなくなると、もうそれは感動ではなく衝動なのです。 この場合の衝動はその場しのぎの思いつきが多くなります。 地獄の迷妄魔たちが突き動かされているものも衝動です。 自己の喜びのみを満たさんとする心を閉ざしたままの衝動なのです。 心の外部にのみ生き甲斐を求めると神の世界から生命エネルギーを受け取れなくなるのです。 したがって地獄の迷妄魔たちは人心を迷わせながら、その場かぎりの衝動(渇欲)に蹂躙されている…。 こうして見ると謙虚の徳性の『をつとめ』の徳目の大切さも解ってきますし、さらに調和の徳性『感性』の徳目の重要さも理解できると想います。 つまるところ『をつとめ』の徳目も、『感性』の徳目も、自身の心の扉を正しい方法で開くための段階論なのであります。 さらに上位の徳目に繋ぐための途中経過でもあります。 しかしこの段階(順序)を正しく追い求めなければ、開いた心は無防備なまま悪用される危険もあります。 いにしえより中途半端な状態のまま霊道を開いた者が狙われたのです。 心を開くも閉じるも自分の判断で行うべきなのです。 ここぞというときに自らの意志で心を開き、危うい場面では自らの意志にて貝のごとく心を閉じなければならないのです。 その方法と心的段階を訓練する必要があります。 それが感受性の豊富な天使たち(地上に降りた天使たち)を迷妄魔の蹂躙から守る手立てなのであります。
人びとが気持ちの上で感じ合う(響き合う)ものの意味内容は様々で、高尚なものから低俗なものまで多種多様であります。 結局は現在の自分の心境程度に合わせた感性が、現状での限界になっております。 この現状での限界(自己限定)を徐々に押し広げる工夫と努力を要します。 その工夫と努力は千差万別で、それこそ個性の数だけの具体性があるでしょう。 しかし総ての人々に共通の概念(目的目標)があるとするならば、それは間違いなく神の方角であり、神の光の方途であり、神の愛が常に中核になければならない…。 そこに人類共通の響き合いが存在するのです。 自己の魂を閉ざした響き合いは単なる自己満足であり、仮初めの団結(烏合の衆)であります。 ゆえに神の真理を知らないものが、どれだけ高邁な理想を説いたところで、真実の調和の実現は難しいということです。 孤高の哲人は天才ではありますが、それは個性における天才であって統合意識(大調和)における天才ではないのです。 自我が大我に至る大天才も稀に存在するわけですが、それは自己拡張の極地であります。 しかしこのような大天才たちが歴史を動かしてきたことも事実でありました。
愛は自他一体の自覚です。 相手の魂の奥底に、光り輝く神性が存在する。 たとえ外見が悪く見えても、奥なる生命の実相は神の分身分霊であるのです。 お互いの神性を礼拝し合う心持ちの中に、大調和への誘いが隠されています。 響き合う感性は、お互いの神性でなければならない…。 その統合意識としての感性は、夢失き人に夢と希望を、夢追い人に愛と勇気を蘇えらすことでしょう。 深き意思疎通があるからこそ、人は人を心から愛せるのであります。 この真実の愛が大調和の原点になるのです。 この原点を見失わないように慎重な歩みが望まれます。 また愛は疑いではなく信ずる心です。 相手の神性をこそ信じて信じて信じぬくことです。 ここに信仰の原点もあり、愛と信仰は一つに融和してくるのであります。 相手の迷いし姿を真実だと信ずることなく、その奥底に流れる神性の確かさを見抜くのです。 すべての人々と大調和する原点も愛でなければならない…。 そこに恒久的な平和と幸福とが訪れることでしょう。 今こそ人類は真実の愛に目覚める時期なのです。 そのために『感性』の徳目は存在するのであります。 |