|
12 け (献身) |
|
『献身』という徳目を想うとき、歴史上ではイエスキリストが浮かびあがってまいります。 イエスキリストの徳性の高さは人類最高峰ですが、その高徳を当時の時代性の中で見い出せた人は皆無でした。 なぜならイエスキリストの日々の姿勢が『献身』の徳目を実践されていたからです。 何に対する『献身』であったかといいますと、言わずと知れた天の父(大神)に対する『献身』でありました。 現代ではキリスト教徒の大半が、十字架に架かったキリストの犠牲的精神ばかりをクローズアップしておりますが、決して贖罪のための人生ではなかったのであります。 結果的には人類の罪を抗うための十字架であったと言われておりますが、キリストの説いた真実の愛の教えこそクローズアップしなければならないのであります。 同時代の人々には肉体をもった人間キリストに接していたので、キリストの言葉を真理として純粋に受け取れた人は本当に少なかったはずです。 どうしても人間はインパクトの強い奇跡に心打たれ、キリストの人間性(高徳性)は後回しにされていました。 それだけキリストの『献身』の徳目が純粋な精神のまま醸し出されていたからです。 《心を尽くし精神を尽くし死力を尽くして汝の信ずる神に祈れ…》 この言葉だけでもキリストの基本姿勢が表現されています。 肉体人間としての囚われ拘りを棄てて、時代という神の身体に我が身を捧げた姿でありました。 それゆえに数々の奇跡も生じたのです。 このキリストと同じ人生を生きたいと願う敬虔なクリスチャンも後を絶ちません。 しかしキリストが現代に生きていたなら如何様な人生を生きられるかを考えてみて下さい。 情報機関は網羅され、交通手段も格段に進歩しています。 人びとは知識に溺れ、個別意識に翻弄されています。 人心は乱れ、独自の価値観が乱立しています。 こうした時代の中で現代のキリストは何を想い何を行ずるのでしょうか。 おそらく個性時代にマッチした個別の愛を説き、宇宙時代の到来を目前にした宇宙の法則を説き、意識の大統合(大調和)を目指しながら、現代という時代にその身を捧げるのではないでしょうか…。 その基本姿勢は『献身』です。 大地の母(空間)に身を捧げ、天空の父(時間)に祈りを捧げ、真実の愛を貫いて生きるキリストの姿を垣間見ることが出来るでしょう。
この『献身』の徳目が進化してゆくと、心を虚しくして神に祈る徳性が自然に現れてまいります。 これがこの次の段階として説かれる『空』の徳目ですが、この『空』の徳目は、まさしくキリストの祈りそのものであります。 祈りというものは具現的な効力があるため、邪な心のままに扱うと本人が大火傷を負いかねません。 そのためにも常日頃から『こせい』の徳目を修し、『献身』の徳目を貫く姿勢が要求されるのです。 自らの存在の意味を知らないままの祈りは闇雲であり迷妄であります。 また『献身』に身を修しないままの祈りは偽善であり見栄であります。 努力精進の階梯を正しく修めながら、心を虚しくして神に祈るべきなのです。
さて『献身』の徳目において大切なことは、メインが何かということであります。 他者との関わり合いにおいて『献身』の姿勢を貫くためには、個性を純粋化してゆく努力を要します。 個我が強すぎると相手は自然と身を引くことになります。 でしゃばりの『献身』は有り得ないでしょう。 良き想いであり良き行為であるからといって、我の強さを前面に出しながらの『献身』は、もはや徳性としては堕落であります。 むしろ他者の良い部分を輝かせてあげられてこそ、『献身』の徳目も輝きを発するのです。 衆知を生かしてあげられる方こそ『献身』の徳目の体現者なのです。 生き甲斐を与え、遣り甲斐を与え、接する人々に希望と勇気を持たせてあげられる人こそ現代の隠れたる偉人といえるのであります。 そこには見栄も粋狂も影を潜め、大きな舞台が独りでに活性化してゆく奇跡にも映ります。 それまでなかなか進展を見せなかった物事が進展し、悉く問題が解決するが、何が原因で問題解決に向かったのかも解からないまま、環境が良化してゆく奇跡を万民が目の当たりにするでしょう。 そこに隠れたる偉人が存在するということを知らなければなりません。
さらに『献身』の徳目の体現者は、衆知を理解してあげられる人であります。 そのためには人の心情を深い洞察で見抜き、人心の罪を心の底から赦してあげられる寛容さが求められます。 『汝の敵を許し、汝の敵を愛せ…』 このように説いたキリストの心情は、まさに人類最高峰の徳性具現者であったのです。 しかし許しの愛は、容易い精神ではありません。 自らの徳性を日々自己研鑽する人でないと、わだかまり無く罪を赦すことは困難です。 かくなる愛は奥深く、その制限を見ないものであります。 日々の基礎研練を怠りなく、神の心に通じた本物の高徳者を目指していただきたい…。 なぜなら『献身』の徳目も日々の努力の結晶であるからです。 |