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17 め (瞑想) |
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『瞑想』には驚くべき深まりと高まりがあり、広がりにおいても悠久普遍です。 それは現実的な形態を持たないからこそ一定の形では完結しないのです。 そこに何らかの完結を見るのは『瞑想』を行う人の現状での限界があるからです。 一年365日、一日24時間、その全てを瞑想だけに費やすわけにはいきません。 人生の意義は、肉体人間としての使命(生き方)にこそあるということです。 ここを誤解すると肉体に宿った人間でありながら肉体そのものを否定して厭世的人生に埋没する人も出てくるのであります。 もともと人間の本体は霊でありますから、精神面を強化することじたいは奨励されるべき内容ですが、あくまでも地上人間としての実生活を通した魂修行は疎かにしてはいけないのであります。 ようするに実生活と精神生活とのバランスが大切になってくるのです。 こうしたことを大前提として『瞑想』の徳目を育んでいただきたいと想います。
『瞑想』の徳目には人によって明らかに実力の差が出てきます。 想い描く能力には上限はありませんが、その方向性と透明度には人的差異が現れてくるのです。 極端に言えば天国的な瞑想展開を繰り広げる人も居れば、地獄的な瞑想展開を重ねる人も居るわけです。 そのどちらにも意義があり真理はあるでしょうが、それらの違いは視点を何処に置くかという違いであったりします。 論語には「治にいて乱を忘れず」という言葉があります。 これは平和な時代が長く続くと、ひとたび巻き起こされた災害に成す術もないので、事前の心掛けや具体的な準備(そなえ)も必要であると説いているのです。 これに反して光明思想では「乱にいて治を忘れず」という精神修練がありえます。 現象は心の影であるから調和の保たれた心掛けを貫けば、心の赴くところに従って災禍のない大調和が現れると説いているのです。 こうした論語と光明思想の相違も視点の違いであり、これを極論の如く受け止めると、かえってそれぞれの尊い教えが狭い教説になって、後の世に大きな誤解を残すことにもなりかねません。 結局どちらも尊い教説であり、その意味内容を人時処(人と時と処)に応じた使い分けをしなければならないというのが真相なのです。 この使い分けに該当するのが人間の徳性であります。 こうしたことは『瞑想』の徳目においても十分に注意が必要な部分です。 どうしても人間は自分が入り込みやすい思考に避難しがちであります。 その思考の避難場所が何時しか逃避地帯となって、自身の思いの傾向性を確固な壁で固めてしまいがちです。 すると、そうした人が意図的に『瞑想』の徳目を磨いたとしても、当人の瞑想状態が如何なるものであるかは明白でしょう。 つまり『瞑想』の徳目を育むためには段階が必要になるということです。
『瞑想』が深まってくると様々な霊的世界が観えてまいります。 この世ならざる神秘な映像も心のスクリーンには見えるようになります。 ここで注意が必要なことは、どんなに素晴らしく神秘で甘美な霊世界に触れたとしても、それのみに溺れないということでしょう。 そうした観点からみても『瞑想』を深める場面においても、人間生活に即した時間割を用意するべきなのです。 『瞑想』を行う場所・『瞑想』を行う時間・『瞑想』を終了する時間…。 こうした時間割は自発的に考えて、その時間割のとうりに毎日地道に積み重ねることが、『瞑想』の徳目を着実に高めるコツなのであります。 肉体人間として地上に生きていながら、肉体そのものを否定して生きるには、どうしても社会人としての整合性に欠けるのであります。 普段の人間生活を基礎としながら、徐々に霊的覚醒を高めてこそ、万民が認める真なる賢人となりうるのです。 こうした姿勢が望まれる背景には、過去に営々と繰り返された宗教観・思想哲学観などの相違による紛争があります。 その思想・哲学・宗教の相違を強固に偏らせた大きな原因の一つは霊的撹乱です。 魔界の悪霊たちが霊道を開きかけた者たちを狙って、正しい思考を撹乱してきた歴史であったのです。 『瞑想』は霊道を開く一つの方法ではありますが、霊道を開くことそのものが主目的ではないのであります。 徳性開発として磨かれるべき『瞑想』の主目的は精神性の向上であり、人格としての徳性(神性)の向上であります。 この徳性の高まりに応じた霊的交流でなければならないのです。 世を憂い、慈しみ、愛の想いで救済される神々の『瞑想』は、対象となる生命たちの現状把握から始まるのです。 そうして段階的な救済を想い描かれ、やがて具体的な御手を下されるのであります。
このように『瞑想』という徳目も我欲や独善を去って、こころ虚しく大神の大御心に意識を合わせ、人類救済の具体策を想い描くための『瞑想』に導かれるべきであります。 神々は常に見守っています。 地上人間の想いが如何なるものであるかは、霊的世界からすればガラス張り状態で見えるのであります。 こころ清らかな『瞑想』は、高次元の神々からも賛嘆されることでしょう…。 肉眼では見えないからといって何でもありという低俗な時代を、人類は早々と過去のものにするべきであります。 |