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19 れ (礼節) |
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『礼節』という徳目は古くから語られてきた徳性の根本真理でもあります。 この礼儀と節度という考え方が叫ばれる背景には、人間は決して一人で生きているのではないということを訴えかけているのであります。 礼儀は先達や後裔との人格的位置関係で語られるものですし、節度は同僚や異種文化圏との調整の原理でもある…。 こうした世界観を堅持することによって、真なる統率者(リーダー)が育まれるのです。 真なるリーダーは、単に技量が高いとか仕事が出来るとか、そうした個別の能力だけでは勤まらない立ち位置にいることを悟らなければならないでしょう。 天の意志を受け止め、その天啓を地の利に合った内容に変換して、それぞれの現状に兼ね合った段階で後裔を導くのです。 さらに天地を貫く理法に則って、それぞれの役割を明確にし、その使命役割を果たすための指揮命令に徹するのです。 強いて嫌われ役に専念する必要はないが、秩序破壊者に面する時節には時に心を鬼にして対する場面は避けられないでしょう。 えてして大半の人間は甘えに脆く、安きに流れ易い傾向があります。 心を有した人間が機械のように惰性を好む背景には、変化に対する億劫さ、現状の保身、個人のみの安泰等に身を置こうとするからであります。 このように機械化した精神を再び流動化させるためには、相手の現状にあった役割を与え、そのポジションにおける自発的段階的な責任感を養う必要があるでしょう。 その場合に注意が必要なのは、相手の現状を正しく把握する慧眼者が居なければならないということです。 徳性の薄い者が優れた先達の遺訓を正しく掴みとっていることは期待できないし、人格者として三流以下の上司が、部下の力量を正しく把握することも期待できないからです。 そこに精神修養(魂の徳育)が必要になりますが、人生を架けて徳育に励むべき中心者は、つねに組織の長たる人物であります。 その次に中心者を補佐する幹部の面々であり、その次に各部門のリーダー教育であります。 会社の社長が何も勉学徳育をせず部下の育成ばかりしたところで、組織の長たる威厳も徳力も感じられないでしょう。 むしろ凡庸な社長は、自らの人格的威厳がないことを薄々知っているため、その代用に職権を乱用するのです。 本当に徳高き創業者は、細部に至る末端社員にまで、その実相(神性)を礼拝し感謝した上で叱咤激励するのであります。 このような自己内部精神を育んでおられる人格者こそ、真なる秩序を創造し現出させられる高徳者なのです。 新創世記が語られる21世紀は、心の暗部の隅々まで真理の光が差し込みます。 今まで見えなかった腹心も、徳者の慧眼からは逃れられない時代になります。 偽りの組成(形骸だけの組織)は音を立てて崩れて行くでしょう。 その後に本物の秩序が創出され、本当の徳者が時代を導いてゆくことになります。
こうした観点から見ても【調和】という徳性、とくに『秩序』という徳目は、多種多様な人間関係の中でこそ育まれてゆく徳目だということです。 たった一人で山奥に籠もって悟れる境地ではない…。 人びとの間で迷妄者たちの雑言罵声という言葉の滝に打たれ、懐疑的陰口、迷言邪説の騒音(勝敗に執するだけの屁理屈…)の中で瞑想(心の調律)を試みるのです。 愛における本当の悟りは野に放たれてこそ深まるものです。 その渦中で心ない迷妄者や諸悪霊に惑わされないために、本来の自分を取り戻す作業が必要であれば、一時期だけ人里から離れて魂を磨くことは正しい選択肢の一つになりえます。 神社などに飾られている御霊代(みたましろ)に鏡がありますが、人は時おり我が心を振り返りみて反省回顧しながら、軌道修正する機会を持ちなさいという天照大御神の御教えが、御霊代(鏡)に込められた大神からのメッセージなのです。 『和をもって尊しとせよ…』と17条憲法の最初に記された言葉は、徳高き聖徳太子を通して語られた天照大御神の真心であり祈りでありました。 秩序という徳目を育む際に最も大切な精神は『大和(だいわ)』であります。 相手を切り捨てるための論説ではなく、『大和』のための論説でなければならない…。 いにしえより他民族の統合融和した調和国家たる大和の国(日本国)は、特に戦後こうした大和精神(やまとせいしん)を見失って久しいのです。 それは戦後の日本に多く流入してきた個別主義思想に毒されたからであります。 個人の人権が尊いのは万国共通ですが、その自由意志尊厳が我悪心(我欲・欺瞞・愚弄・下劣・傲慢)として行使されたなら、そこに現れてくる世界観は閉鎖的利己心(無関心・無責任・無秩序)で、他者との協調はおろか、自己保身の為だけの他者批判、自己尊厳の為だけの悪口暴言、自己優位の為だけの策略隠蔽などが横行することになります。 こうした時代背景が、近年まで目に見えない水面下での汚濁になってまいりましたが、それらの一部始終が真理の光によって白日の下に晒されたなら何とするのでしょうか…。 こうした精神世界の霊的浄化が遅れてきた理由は、腹黒い利己心を助長する悪霊たちが地上界に多いからであります。 人びとは『これくらいなら良いだろう…』という曖昧な判断で、知らず知らずのうちに地獄の悪魔(迷妄霊)の手先として操られているのです。 秩序や調和が歪んだ集合意識(国霊)に膨れ上がると、悪事を悪事と認めないまま自己利権を守るために策略を通して、弱い立場の被害者たちを不運なまま闇に封じる愚行(隠蔽)をするのです。 こうした暗黒思考の権化のことを、古事記の神話ではヤマタノオロチとして表現しているのであります。 |