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00 高い特性を目指す人へ |
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日本古来より培われてきた大和精神(むすび)は、調和が保たれた中でこそ育まれる根本理念です。 この【むすび】の心を深めるために必要な徳性が『融和』であります。 『融和』の徳性は神々の世界の入口に立つ心境なので、ここにおいて自我の要素は限りなく純粋化させることになります。 調和の徳性段階では個性が強いままであっても、同じ一つの理念に対して我が身を提供し、全体の発展繁栄のために貢献できれば徳性は高まるものですが、その上段階にある『融和』の徳性段階は、もはや自身の個性が全体の中に融け込んで、神人合一の心境を磨く段階にあるということです。 これにおいて何を目指すかといいますと、さらに上段階に当たる『積極の徳性』(神意識…如来格)を目指すための登竜門として、『融和の徳性』が用意されているということです。 高天原の神々の心境は、総意としての代表者意識であり、全てに対して全責任を追う覚悟を要する神心境であるため、邪まな我心は存在の余地さえ許されないのです。 そのために『融和の徳性』では人間心(我心)を限りなく浄化しつつ、それでいて人々に面する場面では温かく柔らかい人間心(愛心)をもって接する配慮を、自発的に使い分ける技量が望まれます。 『融和の徳性』は、基礎段階(謙虚・調和)の自己研鑽が無ければ、むしろ追い求めない方が身のためです。 足元(基礎研鑽)が軟弱なまま神の世界を追い求めて道を外した者が、現在も多く黄泉国(地獄)で苦しんでいます。 頭脳だけで構築できる世界観ではないと知るべきなのです。 また数日・数ヶ月・数十年で得られる心境でもないと覚悟しなければならないでしょう。 逆説的で申し訳ありませんが、神の世界の心境を安直に求めるような人間には遠い世界であると断言します。 むしろ自分は小さな人間であると熟知した者が、神の世界には憧れることもなく、謙虚にコツコツと目先の課題に取り組む姿勢を貫くならば、遠い道の果てに自然に(いつの間にか…)得られる境地でもあります。 よって日々『謙虚の徳性』を磨き、その過程で『調和の徳性』を育みながら、人知れず想いを深める行法を積み重ねる自助努力を要するのです。 人間は地上生活を営むだけでも艱難辛苦に見舞われますが、『融和の徳性』を磨く者には、さらに追い討ちをかけて様々な苦難の試しがやってきます。 この苦難の試しは個人的な見解に留まらず、周囲の人々まで巻き込んだ霊的な障害も多くなってきます。 黄泉(魔界)の住人からすれば、『融和の徳性』を磨く者を最優先に潰しにきます。 これは彼らからすれば死活問題なのです。 なぜなら真実の覚者が一人でも世に立つと、彼ら(悪霊たち)の栄養素である悪想念(憤怒・憎悪・嫉妬など)を、聖者たちは人類救済のために浄化するからです。 十分な魂修行もせず、日々の御霊磨きもしないまま、低級霊に憑依されたことも見破れず、新興宗教を率いている凡百の自称教祖の人間性を静観すれば、いかに基礎研鑽が重要であるか…。 この事実を肝に銘じて、基礎研鑽(謙虚・調和)に没頭するべきであります。 こうしたことを前提にして『融和の徳性』を開示したいと想います。 『融和の徳性』には凡そ十の徳目があります。 『創』『空』『巣』『津』『貫』『深』『無』『由』『類』『観』 これら十の徳目の極まりには果てがありません。 つまり終わりは無いということです。 たとえば行法を一週間だけ続ければ一定の水準に達して卒業…というものでもありません。 もちろん数年・数十年ほど行えば終了というものでもないのです。 果てがないということは、行く末は無限であり永遠であります。 無限永遠であるということは、生命観においても物質肉体的三次元世界をも超えるということです。 人間の生命は永遠に生き通しであり、本来の魂の生長は無尽蔵であるということです。 こうした本質を学問として知るだけではなく、日々の行法によって実体験しながら、観念としての自覚を深めてゆくことになります。 そこに守護指導霊との正しい対話が始まり、正道(むすび大道)への導きも始まるのです。 『融和の徳性』を磨く段階において、失望や怠惰などは問題外になります。 かりに失望感や怠惰感に取り憑かれ、ズルズルと魂が荒廃するならば、いったん心魂磨き(融和の徳性磨き)から離れ、一人静かに客観視(深い反省回顧)することをお薦めします。 ここが大きな分岐点なのです。 古来より欲望願望を超越された方であっても、魂が高まりつつある時期に霊障に翻弄されて、自尊心の部分を憑かれ、自分一人が偉くなったような錯覚を引きずったまま、自らの足元(基礎的努力の部分)を顧みない間に、魂を荒廃させてしまった先人たちも多いのです。 心境が高まった者が転落した場合は、落ち込んだ黄泉国(地獄)も深いと覚悟しなければならない…。 この事実は特に強調しておかなければならないでしょう。 徳性を高めるということは、その影響力も増すために責任そのものも増すのであります。 相対する領域が広がれば広がるほど、自身に跳ね返ってくる重圧(責任)も大きくなる。 遣りたい放題したい放題、自分勝手に混乱させたままサヨナラでは済まされないということです。 したがって世にいう宗教指導者や政治指導者なども、率いてきた範囲の人々に与えた影響を(その将来を…)責任をもって導いてゆかなければならないのです。 総ての人々を幸福に導くために徳性は磨かれるべきなのであります。 しかし利己の栄華のみで間違って多くの民を率いてきた者は、その人数に価する年数だけ黄泉国(地獄)で辛吟することになります。 これは悔恨(自責の念)と怨恨憎悪(他責の念)が容易く赦しはしないからです。 こうしたことを踏まえて『融和の徳性』を真剣に磨いて下さい。 |