04 解説【帰依】

 

人間は神から生まれ、永遠なる生命を生きて、魂の浄化と真なる生長とを目指しています。

神は最高の創造者であるがゆえに、形態のみならず精神意識そのものまでも自由を与えられたのです。

しかもさらに幸福の造り手となって魂を昇華させてほしいと願ってやまないのです。

それは可愛い子供たちに大切な未来を委ね、紆余曲折はあろうけれども、いつかは必ず神の意志を継いで、幸福の創造者(供給者)として主体的に生長する姿を待っておられるのです。

それを大神は期限を限らず待ち望んでいる…。

これが太極の意識としての大神の御心なのです。

生み出された個別の生命たちは、まだまだ経験と知識が浅いために、意志の相違から様々な軋轢を繰り返すでしょう。

それを大神は重々知っておられるのですが、それでも一連の経過を強制的に削除されないのは、可愛い子供たち(個生命)の主体的な心の浄化・魂の昇華をこそ信じているからです。

しかも神の子の神性を信ずる深さに終りがない。

こうした創造主の大御心に立ち帰ることは『復命』と言われてきました。

総ての人間は自分が何処から来て何処に帰るのかを想い出す旅(人生道)を生きている。

この生命の原点回帰は時折り想起するべきで、魂の本質を忘れないためにも必要不可欠な復命なのです。

人間が魂の故郷を忘れる時は、おそらく平常心を保てない時でしょう。

平常時には思考回路に縛りが少なく、あれこれと対策を練ることが出来ても、何らかの撹乱で平常心を乱されると重要な視点(問題点)まで掻き乱されて、現在の自分が何処に居るのかさえ解らなくなってしまいます。

これは徳性初心者に限らず、むしろ徳性が高まれば高まるほど気を付けなければならない…。

徳性求道者は地上界では、常に悪思念から狙われている存在であることを忘れてはならず、さらに高徳者ほど大物の悪意が及ぶと覚悟しなければならないのです。

このことは古事記の神話にも伊邪那岐命の黄泉国からの帰還物語として書き記されておりますが、徳性求道者が悪思念(悪霊の誘引)に耐え忍べば耐え忍ぶほど、誘引霊(悪思念)は多くの仲間を引き連れて惑わしにやって来るわけで、かの伊邪那岐命ほどの高徳神霊でさえも終極の闘いでは生命(しかも永遠の生命)を総て懸けて対抗されたのです。

それを地上界にて一般人として生きながら高徳を目指す者は尚一層の努力が必要で、しかも積極の徳性段階を目指す者は人知れず徳性を磨く内面浄化を日々の努力精進として怠らぬよう心掛けるべきなのです。

我が心の内面に常夜灯(真理の光)を灯して、時折り悪意の侵食が無いかどうかを自己チェックすることです。

殆どの迷妄魔は手っ取り早く心の内面に巣を張ります。

そして利己心の魔となって人間の心の内面から手ぐすねを引いて狂わせてくる…。

平時の生活の中で数々の難問が立ちはだかる背景には、自身の内部に巣食う利己心の魔による手引き(影響)も多いと言うことです。

この事実に気付かぬまま他者批判の悪路を爆進する迷妄者の何と多きことか…。

そろそろ人類は時代精神を高めて、自我の克服を人生の礎として生きる必要があるのです。

真実の神に帰依するためには、最も重要な要素は主体性です。

自らの意志で道を選択し、自らの努力で取り組み歩み始め、総ての責任を自分で受け止めてゆく心構えで、大きな運命に立ち向かう徳者こそ、積極の徳性段階にある帰依の徳目を体現する高徳者であります。

誰かに強要されなければ動かない者や、身体や境遇に痛手を得なければ奮起しない者や、二言目には装備器量が足りないことを言い訳にする者には程遠い徳性段階です。

それだけ帰依という徳目も高い地位に存在するもので、自己保身で固まる人間が近付ける境地ではないと言うことです。

歴史上に光跡を残した偉人たちの人生を見て下さい。

彼らは自らの命さえも顧みないで烈火の如く生きたはずです。

命乞いをしている場合ではないと想われた背景には、使命感の深さと不退転の覚悟がありました。

そうしてこれが我欲を捨てた神の子の自覚であり、純粋無垢な個生命に立ち帰った証でもあります。

神の子の自覚があるからこそ強い自信が湧き、神の子の自覚があるからこそ努めて反省回顧を繰り返すのです。

その一挙手一投足を実相の大神は総て知っておられるし、そればかりか本人と同じ気持ちで見守っておられるのです。

 

 

 

19 徳性開発 【積極】