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25 剥離 |
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新生の局面として、まず最初に反省から入るという話をしてきました。 顧みるという作業なくして、反省は有り得ないということです。 そして顧みるだけでは反省の入口に立っただけであるということも知らなければならないのです。 過去の足取りを顧みて、自分自身の想いや言動をチェックしてみて、その善し悪しを客観的に判別するわけですが、この部分で利己心のまま判別したなら、大抵は他者への責任転嫁で終わってしまうでしょう。 愛というものは他者を中心に想いを廻らすものですが、反省は自己責任を中心として思いを廻らすものなのです。 この部分を正しく使い分けるためには、どうしても真理そのものが必要になります。 ここに於いて正しい宗教を学んできた人たちは、反省の核心に入りやすいことは事実です。 正しい真理に照らし合わせて想いと言動との良否を判別するのです。 そうして良きものは残すことになりますが、悪しきものは滞り無く処理しなければならないのです。 ここで言うところの悪しきものとは何であるかですが、その殆どが利己心であります。 他者の立場や気持ちを想い遣れない心は、本来の大和精神からすれば既に精神異常者なのです。 個性化が歪んだまま進展した現代は、偽りの民主主義の下で絶対多数の利己心信奉者が幅を利かせて、利己精神異常者を健常者の如く思われ、本来の正しい精神健常者(想い遣りのある優しい人々)を悪しき病人の如く扱っています。 これは個性を自分勝手に解釈して、物事の判断基準を常に自分の尺度で強要する利己心の現れであります。 反省回顧する場合に、反省(顧みる)作業の次に取り組むべきものは『剥離』(切り捨てる)作業でありますが、ここで切り捨てるものは間違いなく利己心であります。 ただしこの利己心を切り捨てることは容易ではありません。 長い年月を連れ添った自分の性格(…といっても利己心部分だけですが)を捨てるということは、本人にとっては死活問題だと思われています。 人間には利己心もあるが、それを遙かに凌駕する愛他心も持ち合わせているはずです。 そうであるのに愛他心を心の奥底に押し込んで利己心ばかりを多用するうちに、愛他精神を忘却の彼方へ追いやってしまったようです。 その愛他精神を取り戻すために自己反省の折に、正しい真理に照らし合わせた本来の自分と偽物の自分を判別して、悪しき性格を切り捨てる作業を惜しんではならない…。 切り捨てるということは悪しき思い(言動)を否定するということです。 間違った言動をしたあの時の自分は、神の子として恥ずかしい言動であった。 本来の人間が神の子であるなら、あのような悪しき思い(言動)は間違っている。 決して本来の自分では無い…と悔恨の想いで悪しき自分(利己心)を切り捨てるのです。 ここで人間だから仕方ないよと妥協してしまうと、ますます利己心は心の中に居座って、いつしか利己心(間違った我れ)を擁護の鎖で固めてしまいます。 利己心は己心の魔となって心の内部から同種の我心を手招きするのです。 なぜなら自我我欲の汚心を抱いている人間は居心地が良いからであります。 染み付いた汚点を放置したまま、その上に良き自分を重ねたところで、装いを呈したメッキは力無く剥がれる運命にあります。 したがって汚点は早めに取り去る必要があります。 偽りの我れ(利己心)を『剥離』(切り捨てる)するということが、新生の局面を迎えるための二段階目になるということです。 |