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33 自覚 |
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ここまで反省回顧を重ね、新生の局面を辿って来たなら、この後に訪れるものは『自覚』であります。 何に対する自覚かと言えば、これは間違いなく神の子の自覚です。 ここで神の子とは何ぞや…と問えば、大抵の人は言葉に出来ないでありましょうが、本来は聞いた人数なりの答えが有り得ます。 人間の生命は永遠に生き通しであり、各時代を転生して渡り歩きながら、個人的にも神の子の自覚を深めています。 生まれ変わりの周期には個人差があり、転生に於ける出生地や、文明・科学の度合いにも違いが出て来ます。 同時代に生まれ合わせて同じような教育を得ても、受け取り方の違いには個人差があるため、見識の高さや認識の広さ、解識の深さなどの格差が生じることは当然のことなのです。 ここに於いて自我(自己限定)が強すぎると相剋が現れ、お互いの主張を顧みない自己都合は紛争(力の理論に頼る)に繋がり、神の子の自覚から程遠い歪んだ性格に陥ります。 大いなる神は無限であり永遠であり、極みなき完全であるため、神の子の自覚にも制限が有りません。 つまり究極の解答は有り得ないが、個人的な現状(心境差)に於ける、途中経過としての解答は有り得るのです。 これが個性に於ける悟りの違いでありまして、相互の心境差(悟り)を理解し合い、お互いの心境差を埋め合い補い合い、更に切磋琢磨し合うことで無限生長を目指すことが、正しい時代精神でなければならないのです。 お互いの格差を取り去ることこそ本来の悟り(差取り)であります。 神の子の自覚は一言で完結しないし、個人的な理論に集約しきれないものであり、こうしたことから見渡してみても、完悟(自分は既に悟ったという悟り)は有り得ないということです。 何処までも謙虚に着々と人生を歩むために、新生の徳性は用意されているのであります。 新生の徳性を体現するということは、神の子の自覚を深め続ける体質を身に付けるということです。 そのための反省回顧であり、そのための新生の局面であります。 『人、新たに生まれ出でずんば、神の国に入ること能わず』 イエスキリストの聖言は、まさに新生の極地でありました。 イエスキリストが『汝ら悔い改めよ…』と常に反省回顧を促した理由も、現代人は深く理解しなければならない…。 こうした真意が本当に理解されたなら、人間は生かされている事実だけでも魂が打ち震えるほどに感謝しざる負えないのです。 感謝なき悟り(神の子の自覚)は有り得ないのです。 魂の奥底から滲み出す涙を抑えきれないほどの感謝の想いを貴方も体感して、終わりない新生の旅路に船出していただきたいと想います。 |