|
005 判断 |
|
十握剣の五番目の握は判断であります。 判断は閃きとは違い、哲学的な思考アプローチが試されます。 ここに於いては人間の主観が重要になり、如何なる尺度を基礎とするかで判断の理念は様々な顔を見せてくるのです。 迷い多き人は基礎となる主観がコロコロと変わり、その度に能動(見方)や受動(受取方)が定まらぬ迷妄になりがちである。 基礎となる尺度(主観)は小さくても良いのです。 一メートルのモノサシでも10センチのモノサシでも良いのである。 大きな対象を推し測るためには、この基礎的尺度を継ぎ足して地道な推測解明に臨むのであります。 いい加減な所で思考アプローチを止めてしまわないかぎり、何時かは必ず正しい解答に至るのです。 しかし主観を貫くのは大きな危険も伴います。 それが自らの主観であることを客観的に把握しておかなければ、主観は何処までも行っても迷妄道を突き進むのみなのです。 その場合の拘りや囚われは単なる偏見となって、何時しか偏屈者の烙印を押される運命にある。 なぜ自らの主観を客観的に把握しなければならないかと言うと、人間の主観(基礎的思考)は往々にしてズレが生ずるのである。 人差し指は上手に対象を指摘するが、人差し指(自分)自身を指摘(指し示す)することが出来ないのです。 ここが主観に依存する人間の迷妄であります。 判断の理念は大いなる客観視であり、実相世界の神々の御心そのものです。 この客観視があればこそ主観は常に微調整されて、ゼロ点への回帰(ズレ修正)が可能になります。 大抵の人は主観のズレに気が付かず、場当たり的な自己主張を押し通して大小の論争葛藤を繰り返しています。 しかも浅はかな思考のまま挙げ足取りに終始するため、なかなか根本解決に至らないのであります。 判断の理念も実相世界から振り降ろされた光明分析(観念論哲学)である。 この光明分析は霊性の瞳を深めてこそ見極められる、高次元神界の実相哲学に該当するのです。 現代人が陥り易い底無し沼は、定まらぬ主観(我流)に依存する自己に気が付かないまま急降下する自分に、自己陶酔(酔い痴れる)する者が落ちて行く迷妄道であります。 今こそ人類は透徹した真理を手に入れるために、本来の人間の本質(生命の実相)を取り戻さなければならないのです。 |