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063 自我 |
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世の中には上手に他人の失態を指摘する人が居る。 何時も他人の粗探しに終始するのである。 そうしてその習性(他人指摘)は磨かれて悪視となる。 悪視には悪霊が取り憑く…。 そのため更に悪習慣(悪視)が繰り返されるのであります。 しかしそうした悪視は自分には向くことが無い。 何故なら悪視は自我が基準であるからです。 物事の良し悪し判断は自分にとって許せる範囲または許せない範囲になりがちである。 だから自分が犯している罪は、他人が同じ罪を重ねていても罪にはならないのでありましょう。 それでも自我基準を越えた罪は、まるで大悪人でもあるかの如く裁くのであります。 その舞台裏(心の内部)を覗いてみれば、自らの罪の隠蔽を他人に知られたくない恐怖心の裏返しである。 その為に他者指摘は進んでするが自分の間違いを指摘されることを極端に嫌うのである。 まさに腫れ物を突かれた痛みに耐えられない人間の憐れな姿であります。 他者指摘ばかりをしてきた人間は自分が見えなくなっています。 人差し指は上手に他人の粗探しを指摘するが、同じ人差し指で自分(人差し指自身)を指し示すことが出来ないのです。 ゆえに自我の囚われの身となった迷妄者は自己反省が出来ないのであります。 心の内部に隠し持つ恐怖心は、事ある毎に心の中から威嚇してきます。 その内的抑圧に耐えられず、不安や恐怖に苛まれながら、心の内部に潜む己心の魔の手先のように悪事(一方的な他者指摘)を重ねるのである。 こうした迷妄者(他者指摘享楽者)が自己反省をすることが出来たなら驚くほど心の浄化が進むのである。 恐らく最も早く気付くことは、他人に指摘していた内容の殆どが自分にも当て嵌まるという衝撃でしょう。 だいたい他者の失態に気付くということは、同じ過失材料を自分自身の内部にも溜め込んでいることの証明にもなるのです。 従って自己反省のない他者指摘は歪んだ自我の暴露(内部告発)をしていることと同義である。 悪意(悪思悪念悪霊)があるからこそ悪視となるのです。 こうした悪意(己心の魔)を放逐する事が最優先なのです。 従って他者指摘は自己反省の後で良いのであります。 |