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087 醜態 (見られたくない羞恥心) |
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欲得願望や過度欲求の深みに嵌ったなら、暫く立ち止まって静かに心を顧みて致だきたい。 客観的に自らの思いや行為を眺めてみて、そこに恥ずかしさが浮かぶようであれば、まだまだ手遅れではないのです。 羞恥心は魂の下落に歯止めを掛ける神の子としての護符のような存在です。 恥ずかしいと思えるからこそ、緩和処置や改善対策に繋がるのであります。 恥ずかしいと思えなければボーダーラインさえ消滅してしまう。 ボーダーライン無き迷妄は底無し沼であります。 自らの醜態を素直に醜態だと認められなければ、その迷妄は止まることがないでありましょう。 麻薬中毒患者が悦楽のみしか見なければ麻薬を止めようにも止められないのです。 こうした極端な例でなくとも、人間は普段の生活の中で、程度の差こそあれど自らの惰性を止めずらい衝動もあるでしょう。 その衝動に埋没(囚われている)している自分が主観であり、その衝動を第三者として見つめられる心が客観であります。 その時に僅かでも羞恥心を感じられるなら、自発的にボーダーラインを敷いたり、他の何かに意識を変換したり…と、主体的に自律を促す精神が育まれます。 そうなると計画的な人生観が構築されるのである。 人間は考える生き物です。 あれこれと試行錯誤を繰り返しながら少しずつ精度を上げて行くことで、高度な科学力を獲得してきたはずです。 科学の世界にもテークバック(成果の確認)があるからこそ、過去の失敗が未来の成功への道標になるのであります。 主観では自らの醜態が見えないということ。 客観でこそ冷哲な瞳が育まれるということ。 主観と客観の違いを知って、自らの体験を活かした智恵と教訓を見い出して致だきたい。 こうした地道な努力の結晶が、迷妄の呪縛を自らの意志で解き放つ手段方法(徳性開発)になるのです。 羞恥心なきプラス思考や常勝思考が如何に危険な暴走であるかを知って致だきたい。 醜態を見ようとしない光明思想は寧ろ暗黒思想である。 神の子の自覚が本物であるのなら罪穢れは進んで禊払うはずです。 心の間違いは早々と戒め、自発的な反省回顧は光明への帰還になるのであります。 |