088  罪穢

(認めたくない自己罪過)

 

これまでの話を纏めると罪穢れを自覚させるものが羞恥心であると言うことであります。

この罪穢れを認めたくない(認めようとしない)心は何なのか…。

ここを精査する必要がある。

自分は何も悪くは無いと言い切る人間は思考が主観に片寄っているのです。

自分の主義主張は常に自己自身が中心であり原点であります。

善悪や良否の判断基準も自分流の尺度(主観)を持っている。

この尺度に我儘が入れば自分流の裁決を下しがちになります。

本人のプライドが高ければ尚更の拘り囚われとなります。

全ての責任転嫁は自意識(主観)によるのである。

自分流の基準(自己都合)であれば何も悪くない…と言うことなのでしょう。

ここに客観視が出来る高徳者が居たなら、本人を含めた環境境遇の中で巻き起こった罪過は、自分からの影響(魂の傾向性)もあると素直に認めるでしょう。

ましてや全体を掌握する立場にある者は、自己自身の管理責任を潔く認めることになります。

もっとも高徳者たちは常に客観視を以って事前対策を備える徳性があるため、その責任観は日々果たされることになります。

無責任なリーダーほど主観的に周囲を見るため、彼のメガネに叶う良い部下は、彼にとっては都合の良い言動をしてくれる部下になります。

こうした主観リーダーは自己責任を放棄して、諸々の罪穢れを他者に転嫁するための裏工作に専念するのです。

裏工作に専念する機動力があるなら、リーダーとして事前対策の段階で地道な努力を行使すれば良いのですが、後手々々に手筈が遅れる所作が現状での徳が足りない部分なのであります。

主観は自己自身が中心であるため物質文化の現象的尺度だけで十分に通用するが、客観は第三者的視点であるため霊性を開かなければ正しく育まれて行かないのです。

自己限定(自己都合)の殻(呪縛…拘り囚われ)を打ち破る勇気が無ければ何も始まらない。

この自己限定の殻を打ち破る勇気が出ない人は、未だ愛というものの本当の正体を知らない人なのです。

愛の本質が分からない人は勇気の真似事(蛮勇)はするが、その勇気の目的は主観(自分のため)の実現を目指す迷妄道である。

深い愛に裏打ちされた人間は罪穢れを放置しません。

早々と罪穢れを禊祓って人生の教訓に変えるのである。

霊性隠蔽の材料は早期に摘み取る作業が必須であります。

 

 

 

34 霊性開示 【封印打開編】