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執着に嵌まり込む人の特徴は、執着そのものに刺激を求める傾向が見受けられます。 程良い刺激には心地良さが伴い、この心地良さを得んが為に執着に嵌まり込むのです。 人間に具わった慣れ親しみの感覚機能は直ぐさま執着にも慣れ親しませ、空虚な物足りなさを感じさせるのであります。 こうして執着に対する刺激追求は繰り返され、刺激の強さ深さを求めて止まない魂の傾向性が出来上がるのである。 その刺激追求は全て自分の為の時間浪費となり、そのまま自分の中に閉じ込もる空間浪費にも繋がります。 刺激が深まれば傷みに変わるのである。 執着(心地良さ)と傷みは紙一重であり、人間の慣れ親しみが高じると、いま自分が求めて止まない刺激が心地良いものであるのか、はたまた心身を蝕む傷みであるのかが、よく分からない状態になるのです。 そうなると例えそれが心身の傷みであっても、刺激追求を礼讃する傾向が出始めるのです。 自分自身の心身の傷みを敢えて選択する刺激を求めるナルシストになるのであります。 ナルシストは自己自身の美しさを追求するが、その魂の傾向性は自我誇張礼讃であるのです。 拘り囚われの究極には心身の傷みも厭わない自我誇張礼讃(刺激ナルシスト)に繋がっている。 これは人間に具わった慣れ親しみの誤用であるのです。 自我誇張礼讃は其のまま受難礼讃であります。 自分で自分の首を絞める行為になってしまっている。 この事実を本人が知りながら行うのであれば何処かで軌道修正もありえますが、大抵の場合は本人自身が自分の傾向性(刺激追求)に気付いていないのが現状である。 こうしたことから考えられることは、受難克服の鍵は我が身の現状把握に問題の糸口が存在すると言うことであります。 ナルシストが美しさを感じるのは主観に元ずく美的感覚である。 これを客観的に見渡したならばナルシストの美しさ追求は、心の醜さ未熟さを自分から暴露している醜態に映るのであります。 執着に対する刺激追求を正統化する者は、公衆の面前で醜態を晒しても羞恥心が感じられなくなってしまいます。 |