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物欲に追従するものに金欲があります。 金欲は物欲を果たさんが為の代替欲となっています。 お金があれば何でも出来ると錯覚するなら、もう立派な金欲の奴隷となっているのである。 金欲者が求める金銭感覚は、まるで神を信奉する信仰者の如く、金銭に対する依存心が凝り固まっています。 しかし経済を流転させているものは消費であり、その消費を起こしているものは一人々々の人間であります。 つまり円滑な人間関係を無視した金銭追求は、経済流転の法則から疎遠となって、僅かな金運からも見放される運命にあります。 人間社会は金銭がメインではなく人間の真心がメインである。 社会人として逸脱した思いと行為は、自ずから心の貧困へと向かうことになるのです。 不平不満が多い人は主観(自己を中心とした判断)で世の中を見ています。 我田引水は虫が沸きやすく水も腐り易い。 自己中人間には悪霊が憑きやすく性格も腐り易いのです。 金銭にも心があり、人から人へと渡る過程で金銭なりの魂修行をしているのです。 少しでも浄財として扱ってくれる人の元へ辿り着きたいという想いが、金銭に込められた願いであり祈りであります。 そうしてこの祈願は創造主の愛念でもあるのです。 従って金縁が有るか無いかは、人の心に愛念が有るか無いかに関わってくる。 愛念の深い人は囚われも拘りも少なく、常に善意の消費を心掛けているのであります。 今後も社会通念の乱れが誘発する天変地異が繰り返されるでありましょうが、その度に被災地を救うものは愛念深き善意の消費なのです。 人と人との心と心を結ぶ愛念が有ればこそ、正しい経済の流転が社会を潤おすでありましょう。 金欲を貪る心を放逐するためには人として何が足りないのかを自己内照する必要がある。 そうして現在の自分にも出来る範囲で善意の消費を心掛けるべきであります。 社会を巡りながら自らの手元に渡ってきた金銭は、数限りない人生模様を見渡してきた心を持っています。 訪れた人の心が悪意悪念に満ちているなら、金銭も其の場を嫌がって早々に立ち去ることになるでしょう。 |