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悪癖を待避所のように重宝している人は多いのです。 何処にも持って行きようのない気持ちのモヤモヤを忘れる為に、弱い心は悪癖に向かいます。 つまり悪癖は現実逃避の材料になっている。 世の中には思い通りにならないことの方が多いため、悪癖は何かと繁盛するのです。 しかし悪癖に時を濁しても現実問題は消えることなく襲い掛かり、激しく魂を揺さぶってくるのであります。 一時の待避所は問題解決には役立たない。 むしろ悪癖没頭は魂の浪費なのです。 悪癖には様々な種類があるが、殆どが自己陶酔である。 正常な心を酔わしめて、無常の中を彷徨い歩く世捨て人のように、宛てのない享楽を求めて止まないのでしょう。 悪癖が魂の傾向性として固まると立派な性癖となって、逃れられない隷属的立場に落ち着くのです。 これは現実が現実か偽物か、性癖が現実か偽物か、何方が自分の赴くべき本来の世界であるのかが解らなくなってしまうのです。 現実逃避の材料に過ぎない悪癖が本来の自分の姿であると錯覚してしまいます。 これは他人事ではなく全ての人間が陥り易い落とし穴なのです。 他人の悪癖は見つけ易いし忠告し易いのであるが、自分の悪癖は見い出し難いのであります。 それは大抵の人が他人には厳しく窮屈であるのに、自分には優しく寛容であるからです。 徳の高い人は自分には厳しく厳格でありながら他人には優しく寛容である。 徳の足りない人ほど他人には厳しく自分には優しいのです。 何時しか人は個性の尊厳ばかりを追い求め、他者の存在や相手への配慮を忘れ、自分の我儘を自らの意志で抑える術(霊性)も失い掛けています。 霊性を閉ざしたまま現実逃避を試みれば、間違いなく行き着く先は自身の性癖であります。 性癖という自己陶酔は益々霊性を閉ざしてしまいます。 魂の故郷を見失った迷い子は刹那に飛び込んで行くより他に現実逃避の方法が見当たらなくなってしまうのです。 刹那の中には実相(神仏)が観えないのである。 刹那には時の流れを止めようとする現実快楽主義があります。 性癖には自己陶酔としての快楽や刺激を求める魂の下り坂がある。 この下り坂を快適に感じて二度と霊性復命に戻らない現実逃避者が現代は多くなったのであります。 |