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自己陶酔の心地良さに慣れ親しんだ心は物足りなさを感じて更に強い刺激を求める…と言うことでした。 心地良さに慣れ親しむと言うことは何を意味するものなのか…。 これは求めるものが感性の安堵ではなく感覚の刺激(変化)になっているのです。 感性の安堵とは自他一体の境地であります。 お互いの魂が心の奥底から分かり合えれば、少々の誤解は理解を更に深める為の材料となる。 そこに相性(魂の心地良さ)を感じ合えれば、変化を求める為の強い刺激は必要が無くなるのです。 本来の生命の感性は魂の奥深い融合であり以心伝心であります。 この魂の一体化が浅い処で留まると、相手の気持ちが理解出来ないまま疑心暗鬼が深まるばかり。 そうなると強引な知覚(刺激)を用いて泡沫の感覚を得ることで満足しようとするのです。 しかし刺激は感性ではなく感覚でありまして、何処まで強い刺激を重ねても魂の奥深い感性は得られないのです。 従って刺激(快楽)の追求は終わりのない強欲に堕するのである。 つまり心地良さの追求は感性なくして観じられない生命の神秘なのであります。 感覚に心の安堵を求めても虚しい風が吹くばかり…。 その虚しさ淋しさを埋め合わせんが為に人は自己陶酔に嵌まり込むのです。 自己陶酔は感覚を麻痺させて擬似的な心地良さを演出します。 その甘美な誘いに酔い痴れて軟弱な心は微温湯に浸り、強欲な心は強い刺激湯を求めて止まないのであります。 微温湯も刺激湯も魂の停滞に於いては同じであり、感覚を越えた感性の深まりを得るまでは、魂の停滞は其のまま生命の退歩になる。 いつしか人は感覚偏重の人生を送り、霊性の扉を固く閉ざしてしまいました。 魂の岩戸開きが叫ばれる現代に於いて刺激追求の人生は傍流(逆流現象)であります。 この自己陶酔への依存心を克服しなければなりません。 心の内部に居座る快楽は、自己自身の弱さを熟知するがために何気に強敵であります。 故に自己陶酔の克服には巧みな智恵が必要であり、段階的な対策と実質的な対処が必要になります。 何れにしても現在只今の現状把握が出来なければ先へは進めないでありましょう。 そうした意味合いもあって真理を学ぶことが最優先になるはずであります。 |