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ここで不安焦燥の問題点は何か…と言うことですが、それは念の固定化であり凝固であります。 恐怖心を抱くと強烈な印象を心に抱くのみならず、その恐怖意識の刻印を心の奥底で何時までも引きずることになります。 そうなると心には創造する能力があるため、恐怖の意味内容を現象化(物質化)させるのです。 柳の木の下に幽霊がいると恐れていると、その恐怖心の現象化で本当の幽霊を呼び込むことがある。 暗い夜道を一人で歩いていると、後ろから誰かに付けられているように思って恐れていると、その恐怖の思念が本物の不審者と波長が合って、ストーカーを呼び寄せてしまうこともあるのです。 この地上世界は心の法則(因果の理法)に支配されている。 心に何かを思い描き強く念ずるものが、やがて時を経て形を現わすのであり、心に思いも寄らないこと(思い描きが無いもの)は現れようがないのです。 生粋の聖者は悪と対峙していても相手の本性を悪と認めず、許しと寛容で悪を善へと導くのである。 罪を憎んで人を憎まず…とは言いますが、生粋の聖者は罪すら一時の迷いと把握して、深い愛への道標に変換してしまうのです。 不安や焦燥も繰り返し心に印象すれば意識は固まって現象化する。 自らの意識が創り出した不安焦燥の現実であるからこそ、自らの意志で恐怖の実態を消滅させることも出来るはずなのです。 そうであるにも関わらず襲い掛かる恐怖の責任を誰かに転嫁する人が後を絶ちません。 これは隠れた罪作りであり、自らの隠蔽に気付かないまま他者転嫁を繰り返す人は、名実共にトラブルメーカーの仲間入りするのであります。 こうしたトラブルメーカーほど魔界の住人に好かれるようで、心の法則を無視して好き勝手に生きる人間の末路は、同波長の霊世界(黄泉国)に自ら赴くことになるのです。 地獄の住人は自己反省をしようとしません。 彼らは常に主観(個我)のみの思考回路であるため、加害者でありながら被害者意識しか持てないのです。 こうした話から逆算すれば恐怖心に付随する不安焦燥は、主観による現実視感(表面的結果)で捉えている恐怖状態であると言うことです。 その不安焦燥の過程を分析して主原因を見い出せば、その時点で恐怖心は跡形も無く消滅霧散するのです。 そうした心的アプローチを放棄してしまったなら、心の世界は永久に暗闇世界のままであります。 |