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ここで主観と客観について今一度お話します。 主観も客観も人間の認識形態としては大切な視点である。 ただし其々の観念に違った特徴があり、見え方や感じ方にも差異があるのです。 まずは主観ですが、人間にとっての主観とは物事の正否や誤差を正確に把握するための認識の形式であります。 正しい把握には基準となる尺度が必要で、この尺度が精密であればあるほど現状把握も正確な判断ができるのです。 尺度が精密であるということは、深く自分の個性を理解していると言うことで、本人が自分の魂の傾向性を正しく知るからこそ、相手の言動との微妙な違いが分かるのである。 しかし自分の魂の傾向性が未だ分からない状態で他者裁きを繰り返す人は、物事の判断基準がバラバラで一貫性がなく、本人の気分で簡単に主張を変えたりするので、周囲の人々は困惑するのであります。 しかしその事実に本人自身が気付いていないというパラドックスが日常茶飯事として起きてくる。 これは一重に判断基準の基本的な尺度が曖昧である証拠なのです。 また基本的な尺度が曖昧である者ほど思い付きが多く押しが強い傾向にあります。 それもそのはず、仮に自身の内に精密な尺度(判断基準)が存在するなら、その尺度を用いて精査する余地(時間)があるはずで、この内的精査が無い者(熟考しない者)は思い付きや場当たり的な解釈が多くなっても不思議ではありません。 また主観に歪んだ感情が入ると、その日の気分で判断基準が変化するため、周囲の人々を混乱させたりするのです。 主観的感情は自己自身の経験則に周囲を取り込もうとする…。 ゆえに個人的な段階を踏まえた思考の使い分けも難しくなります。 もともと主観的感情は感覚が起点にあり、その感覚は本人の経験則そのものであるため、経験量の多さ少なさで力量の差が出るのは仕方がないのです。 しかし主観的感情も自発的な解明を目指す意志が持続するなら、未だ誰も知らない未踏の分野を解明する深い思想哲学になる可能性を秘めています。 思想哲学は主観の精査を追求しながら総ての世界観を解明するのが使命であり役割であるはずです。 主観を正しく扱える人格者が一人でも現れたなら、その時代は多くの恩恵を授かることになるでしょう。 間違った主観的感情が横行する時代を、彼(真なる哲学者)は悉く改めて行くでありましょう。 |