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自我の芽生えを知覚した人間は、認識の形式を正しく判断しようと努めます。 物事の真相を有耶無耶のままで放置する人間は、未だ自我の正体に気付いていないのです。 自己内部に潜む自我は事物を判断する為の基本的な尺度(モノサシ)となる。 この尺度(自我)が中途半端な理解で扱われると、人間関係には摩擦が絶えません。 つまり自分の心が正しく見えない者は、他人の心も正しく理解できないと言うことです。 これは当然の話で、自分流の色眼鏡が赤色であることが判らないなら、全ての世界が赤色に写ることを不思議には思わないでありましょう。 目の前に他人がいて彼の色眼鏡が青色である場合は、青色に写る世界が理解できないはずです。 しかし自らの自我(色眼鏡)が赤色であると知っていたなら、異質ではあるが青色に彩られた世界観も一つの個性として受け入れやすくなるのです。 他者の個性を探る場合、一般的に見ても自分との比較で判断するのは世の常であります。 更に自我を純粋化することに成功するなら赤色の色眼鏡で見えていた赤世界に、青色の色眼鏡を重ね合わせて、紫色に彩られた新世界も霊的な瞳で観えるようになるでしょう。 これらの話は例えに他なりませんが、心の相対性は判断基準としての正しい尺度が必要になる…。 他人を裁いてばかりいる人が誰かの悪態を諫めても説得力が無い。 自らの悪癖を止められない者が他者批判をしても眉唾ものである。 あれこれと世の中の悪を裁く前に自己自身の心に潜む己心の魔に気付くべきであります。 そして自らの心の浄化を最優先に行なう貴方であれ…。 徳性の高い人は我欲の醜さを身を以て知っているので自我を薄める努力精進を日々行じています。 徳の足りない者ほど自己評価に奔走して、その言動にも自己表現が多くなるのです。 自分が…私が…俺が…僕が…。 自己評価(我欲)に迷う者は主語が多くなり我(が)が付き纏うのであります。 自我を正確に把握するものは他者の心も正確に読み取ります。 そこには歪んだ自我による固定観念が薄れ、拘り囚われから派生する偏見も影を潜めるからである。 その時にこそ彼我を理解することが出来て、お互いの良し悪しを全て包み込んだ心の交流が始まるのであります。 |