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己心の魔は程度の差こそあれ現代人には誰にでも存在しています。 社会通念の中に共通の認識があるように、心の世界にもまた共通の善意悪意が存在しています。 しかしこの善意悪意は何処までが善意で何処からが悪意かの線引きは難しい問題で、時代背景や個人の環境境遇によってもボーダーラインが変わってくる…。 個性化の進んだ時代には個人的な善悪基準(ボーダーライン)があり、物事の見方や考え方は人それぞれ違うものであります。 その違いを悪用して人間関係を分断化してくるのが悪霊悪魔の類であり、彼らは己心の魔を悪用して利己心を煽ってくるのです。 つまり個人的なプライドを捻じ曲げて心を狂わせてくるのです。 人間が抱く嫌悪感は、異質なプライド間に巻き起こる精神的な葛藤であり、お互いの自由意思同志の相剋であります。 そうして極端に捻じ曲げられたプライドは、まるで腫れ物のような存在となっていて、ほんの少しプライドを突いただけでも、その腫れ物(プライド)の痛みに大騒ぎするのが己心の魔であります。 そうなると明確な善悪の指摘は逆効果でありまして、ますます意固地な性格に追い詰める危険な行為となるのです。 そうであるのなら嫌悪感を頑なに抱く己心の魔のプライドを逆利用することが妙手となります。 昔の若者たちは手厳しく叱られながらも反骨心で育ちましたが、現代の若者たちは褒められなければ育たない人間が多くなってまいりました。 それだけ精神力が軟弱になっていると言うことですが、デリケートな心にはソフトな対応を心掛けるのが良いのであります。 要するに嫌悪感を抱く者に否定は禁物で、最初は常に肯定から入る必要があります。 つまりその嫌悪感の気持ちを理解してあげると言うことです。 捻じ曲がったプライドは共感というオブラートに包むことで己心の魔も一旦は心を傾けてくる…。 そこで幾許かの嫌悪感をソフトに吐き出させたなら、己心の魔は手駒が無くなり悪意悪念の手立てを失うのであります。 そうした間隙が希少なチャンス期であり、己心の魔の手立てが無くなると本人は真人間に戻る瞬間があるのです。 そこを逃さず真理の言葉を投げ掛けるのであります。 己心の魔は真理の言葉を嫌うが、本来の真人間は魂の故郷が天国であるからこそ真理(光の言葉)を好むのです。 ほんの少しの間隙ではありますが嫌悪感から解放されて真人間に戻った時に、何処まで深い真理を彼に伝えられるかが勝負なのであります。 |