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思い通りにならないことを感情的に発奮するようでは、まだまだ感情に対して隷属的立場に居ると言うことです。 共同生活である人間社会は、思い通りにならない事の方が多いはずです。 それなのに自らの意思のみを貫こうとすれば、自由と自由の相剋は避けられません。 ここに力の倫理が始まるのであります。 腕力は元より、知力(知識量)や票力(賛成多数)に頼り、一部に不理解者が居れば法力(憲法刑法)で抑え込み、最後は武力兵力で力付くの強制力に頼るのが現代人である。 なぜこうした力の倫理を用いた解決策を採用しなければならないのでしょうか…。 それは現代人には未だ本来の人間としての徳性が具わっていないという現実があるのです。 そのため個人的な我儘が暴力(力の倫理)による解決策を採らざる負えない状況なのです。 心を見失いがちな現代人には、我儘と暴力は同根底同意語になっています。 それは力の倫理に依存する迷妄者たちが仮初めの繁栄の末に造り上げた社会であるからです。 自分の利得のみに溺れ、自我我欲に埋没して、人として大切な心を何時しか見失ったのであります。 欲望の産物である羨望と装飾が貨幣経済を回している…。 何のための人生なのか分からなくなった人間が都会には犇めいている…。 総ては徳性を見失った現代人の虚栄が齎した時代精神であります。 人間は徳性を取り戻さなければならない。 個人主義の世界観に人徳が無ければ、そこに展開するものは間違いなく力の倫理(弱肉強食)であります。 またこの力の倫理に科学力が加わった事で終わりなき紛争が続いています。 報復による報復が繰り返されて、相手に対する憎しみは増すばかりです。 世代を超えた弔合戦には終わりがなく、力の倫理を信奉する限り何方かが消滅するまで虚しく続くのであります。 現代人が想起しなければならないものは正しい心であり、感情を調律する正しい徳性追求なのです。 人として道を外したことに自ら気付き、反省回顧を通して自発的に軌道修正をする精神を磨く必要がある。 自らの精神構造を現状把握することが出来なければ、公私の区別など思いも寄らないでしょう。 これは本来は心ある人間として恥ずかしいことなのです。 |