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081 社会秩序を保つのは公私の区別 |
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それでは平等観念と公平観念を正しく使い分けるものは何なのか。 それが人間本来の生命に具わっている人徳であります。 創造主と同じ徳性を内に秘めた生命体が人間本来の人徳である。 この人徳は、善悪の何方も行使する自由がありながら、主体的に善を採り愛を行ずる性質が徳性として人間には具わっているのです。 人間の徳性如何は、主体的善事を施す割合であり、徳高き聖人は善事愛行の割合が限りなく多い人間であります。 その逆のケースで徳の低い人間は善事愛行の割合が少なく、悪事我行の割合が多い人間であります。 善事も悪事も行使する自由の中で如何に多くの善行愛行を選択するか…。 ここに転生輪廻を繰り返す人間の生命の実相が見え隠れするのであります。 しかし善事と悪事の篩い分けは難しい問題でもある。 もちろん他者の生命を意図的に断つことは大罪ではありますが、小さな範囲での善事悪事は、得てして個人々々の許容範囲に左右されるのです。 ある人には大した関わりでもない出来事が、他の人には感情を狂わす程の大問題であったり、またある人には蚊が刺したような痒み程度の案件でも、他の人には腫物を突かれたような激痛を感じる大事故であったり…。 こうした人それぞれの許容範囲に於ける格差が、そのまま人格として普段の生活に現れるのであります。 徳の高い方は忍耐力も霊耐力も持ち合わせておられるが、徳の薄い方は自らの感覚や感情すらも自己統制できない精神軟弱状態にあると言うことであります。 精神面の弱い人間は公私の区別が難しい人間であり、本来は私用で自由意思を行使していても、公用では自己自身の我儘を控えなければならないのです。 社会の秩序を守るものは公私の区別を自らの意志で判断することが出来る方々であり、そうした大人の対応を常に心掛ける人間こそが人格者としての立派な社会人であると言い得るのであります。 自分勝手な我儘を押し通す人間は未だ魂が幼い(分別が効かない)迷妄者である。 魂の幼さに年齢の高低は余り意味がなく、年老いた頑固者(自分勝手な我儘)も居れば、年若き聡明博識者も居るのです。 何れにしても人間関係を軽んじる人には体験が貴重な経験値にならず、その場凌ぎの通り縋り程度の刹那意識が人生を支配するのであります。 |