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021 悲哀と慈愛 |
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人生には度々訪れる悲しきドラマがあります。 自分が直面する悲しみであれ、他人に及んだ悲しみであれ、悲哀物語は感情を激しく揺れ動かしながら、心を疲労困憊に引き摺り込むのであります。 悲しみの本来の意味は何なのでしょうか…。 それは心の扉を閉ざした状態が悲しみの正体であるのです。 心を閉ざせば自と他を繋ぐ精神面の交流が断たれるのです。 そこに残されたものは、外界にポツンと取り残された孤独であります。 人間は人と人との心と心が、真理(神の光明)の絆で結ばれているからこそ、安定した心の交流が果たされるのです。 そうした人間同志が心の扉を閉ざして互いの心を失うと、人間社会は仮初めの団結(自己都合の良い時だけ)に限られた烏合の衆(同士)となるのです。 心が通い合わない人間関係では、お互いの思惑通りに事が進まないために、我儘が通らない衝動を抑えきれず、悲しみの感情が堰を切って溢れ出るのであります。 しかしこれはまだ自らの感情を独り占めしている幼い魂の段階であることを、単に辱めもなく暴露している状態であります。 もともと感情そのものは、創造主が人間に与えた人類共通の概念である。 それ故に感情はお互いの気持ちを分かり合える心的ネットワークでもあるのです。 その人類共通の心的ネットワークを自らの意思で遮断すれば、たった一人で外界に取り残されたような寂しさを感じるのです。 そうした状況で寂しさに耐えられず、孤独な幼児の心は悲しみの濁流に呑み込まれて、自分自身さえも見失うのであります。 しかし心の扉を閉ざすことなく、心的ネットワークが繋がったままの状態で、他者の苦しみや悲しみを共感したなら、個人的な悲哀は慈悲の心を介して、あたたかな慈愛に昇華するのであります。 人生が自分の為であるのか、自分を含めた人の為であるのか…は、その後の人生に大きな違いが生ずるのです。 同じような理由であっても前者は悲哀となり、後者は慈愛となる。 貴方の悲しみは前者(自分の為)か後者(人の為)か…。 この事実を時折り自己反省しながら、努めて人生の軌道修正を試みる必要があるのです。 心の扉を閉ざしていたなら永遠に慈しみの心は解らない…。 悲しみは心ここに非ずの状態である事を早々と気付くべきであります。 |