025 心配と信頼

 

世の人々の大きな誤解の一つに心配という感情があります。

心配は心を配ると書いて心配なのですが、何が何に心を配るかで心配の意味内容は天地ほどの違いとなってしまいます。

自分が相手に心を配る…。

この意識で生じる心配は相手側の心配ではなく、自分側の心の問題を相手の人生に当て嵌めて推測する心配事であります。

つまりこの自分が相手に心を配る心配は、相手と同じ境遇を自分が行なえば起きてくるであろう未来の予想を、自分側の思考回路で思い惑う結論の押し売りであり、しかも心配に心配を重ねる念の集積によって、まるで超能力者が念じた通りスプンが曲がるように、相手の人生を捻じ曲げてしまうことが有り得るという事です。

これを自分なりの愛情表現であると思い込んで、可愛い我が子を心配する念ばかり重ねれば(不幸不安の予想を重ねれば)その言葉の力で我が子の環境に悪しき境遇を実現させることになります。

これも心の法則(因果の理法)の誤私用であります。

こうして見ると自分が相手に心を配る心配は、結局は自分が自分に心を配る心配となっている…。

愛情という人類共通の概念を私用すれば、愛情が愛情では無くなってしまうのです。

この愛情という人類共通の概念を公用すれば、其処に自分という我欲心が薄れて、純粋な心持ちで相手の前途を祝福する気持ちが芽生えるはずであります。

そうなると心配という自分側の思考回路は影を薄め、相手の失敗を予想するような心配事ではなく、むしろ相手の内にも宿る神の子の光明を見い出して、心配は信頼へと変換されるのであります。

要するに心配は自分側の思いであり、信頼は相手側の想いであります。

ここにも感情に作用する利己心と利他心の違いが出る訳で、あくまでも利己的感情は自己中心的な思念であるという事を忘れてはならないのです。

利他的感情で相手を深く信頼するなら、その信頼の想念は相手の前途を霊的にも助けることになるでしょう。

やがて人類が真なる徳性を取り戻したなら、心配することが愛情表現であるという錯覚は、旧世紀の忘れ形見のような扱いになるでありましょう。

相手の為だと思っていた『思い』は、実は自分の為の思いであったと思い知らされる時代が到来するのであります。

 

 

 

39 霊性開示 【新創世記編】