026 疑心と信仰

 

現代社会を狂わしている原因の一つに疑心があります。

疑い心も信念にまで高まれば立派な信仰になります。

信仰に横から口を差し挟む行為には、信心に対する反逆のような扱いを受ける…。

つまり疑心暗鬼は片寄った信念で意識を固形化した迷妄邪説教の信仰者でもあるのです。

いったん心に固めた迷妄信仰は、簡単に改心が出来るような代物ではありません。

頑なに凝り固めた信心を解凍する術は少ないのであります。

何故なら疑心暗鬼を霊的に操作している迷妄観念が、現代社会の地表には濃い霧のように蔓延っているからであります。

この迷妄観念の正体が言わずと知れた悪霊悪魔の類であります。

霊性時代を迎えた21世紀は、信念の正しい取り扱い説明書が重宝される時代であります。

総ての人間は信念を固めたい衝動を持っています。

信念が或る一定方向に固まれば、心は一定方向に自ら進む(魂の傾向性)リモートコントロールが働くようになる…。

しかしこのリモートコントロールは善にも悪にも靡く価値中立性があることを忘れてはならないのです。

従って人間は如何なる方向に信念を進めるべきか、また信念の純度を何処の段階で保つのか…。

ここが人格形成に於ける徳性開発の質が問われる部分であります。

だいたい疑い心は、自己自身の内部に本人なりの回答を用意している人間が、その偏屈な尺度のみを無理やり正論だと押し通す我欲の強さから発生しているのです。

その内部に用意している回答を精査することもせず、自分自身の心の習性を見抜く努力もせず、我が身の本性すら分からない人間が、自我の興味関心のみで集めた知識から自己流の回答を持っているに過ぎません。

この地上世界には究極の回答は有り得ないが、三相応(人・時・所)の的を得れば限定的な回答を弾き出すことは可能であります。

しかしこの三相応を正しく把握する為には、それを把握するべく本人に片寄った偏見があることを見抜く必要があるのです。

そのため反省回顧の習慣が無い人間は、永久に正しい回答(真理)を掴むことは出来ないと言うことです。

こうした観点から社会を覗き見れば、信仰心が在るだけでは人格者とは言えないのであり、その信念の針が何処を向いたものか、さらに信念を高める本人の自我が何処まで真理に対して純粋なものであるか…。

こうした人間性の原点に立ち返った信仰心を、人類は正しい思考回路で模索しなければならないのであります。

 

 

 

39 霊性開示 【新創世記編】