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058 戒が必要な背景 (ユダヤ教) |
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生粋の宗教家たちは生涯を全て修行として自己啓発に魂を注いでいます。 真理というものは一時期の学習のみでは頭の中で理解しただけで、魂の奥底に正しく自覚した真理を得る為には生涯に渡る実践が必要になります。 一週間だけ濃密な集中講義を受けたからと言って悟りを開けるものではない…。 一年や三年で学習を積んだからと言って悟得修了ではない…。 真なる悟りを開いた覚者であるならば、自らの魂の傾向性を熟知するが故に、自己反省と基礎研鑽は生涯を賭けた日々の日課となるはずであります。 そこに宗教的な戒律は生活の必需品として、共に歩む最良の同志とならねばならないのです。 高度なセミナーを受けただけで高僧に成れるものでもなく、高級な学位を取得すれば高名な徳者に成れるものでもありません。 人それぞれの個性が在るからこそ其の人なりの修行徳目は涅槃にまで連れ添う伴侶でもある。 ユダヤ教にはモーゼの十戒が伝え残されておりますが、人間の共同生活に於いて戒めなければならない最低限の戒律が伝えられたはずであります。 父母を敬え、殺すなかれ、盗むなかれ、騙すなかれ、姦淫することなかれ…等々、人として当然のことを戒律として並べなければならなかった当時の時代背景を推測すれば、いかに人心が乱れていたかが伺われます。 これは歴史を翻って現代人を見たなら、現代にも細かく複雑な法律が羅列してあります。 これ程の条文(定め・決め事)が人間社会に必要な背景を推測すれば、如何に現代人が疑心暗鬼に踊らされているか、人間関係に摩擦葛藤が多いかを如実に裏付けている…。 本当の神の子としての信頼関係があれば、相互を縛る条文など必要はないはずです。 お互いの気持ちを配慮する心の交流の中では、助け合い励まし合い生かし合う人間関係が築けるはずなのです。 しかし悲しいかな現代社会には多くの法律や刑罰が存在して、今後も想定外の凶悪犯罪が起こるたびに複雑怪奇な法規が増えるでありましょう。 これが現代人の彷徨える心の現状である。 太古の人々は日常生活に正しい信仰があり、神の教えを生涯の友として自主的に自らの心を律しながら慎ましく生きたのであります。 そうした本来の大和精神に立ち返って自我我欲を薄めながら、現代人は人間関係に於いて真なる調和を目指す必要があります。 |