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059 修験は超能信仰 (修験道) |
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戒律は生涯に渡って守るべきものであると語られました。 生活に活かしてこその魂の傾向性であります。 習慣は地道な積み重ねである。 悪しき習慣ばかり肯定して、良き習慣を弾圧するなら、既に個別意識は利己的感覚に侵され、悪霊悪魔に巣喰われている状態である。 個別意識の権化は自分が世界の中心であるかのような思考回路で生きております。 そうした自己中人間にとって自己は全て善であり、他者は自己都合に合致しなければ全て悪となってしまいます。 自己中人間にとっての良い人は自分に都合が良い人であり、自己中人間にとっての悪い人は自分に都合が悪い人であります。 こうした悪態を頑なに肯定するからこそ、自己都合人間は片寄った自己主張を言い張って他者の意見を聞かず、他者との真っ当な会話が出来なくなるのです。 まさに悪習慣は岩石の如く固まって、魂の傾向性を悪意悪念に傾倒させるのであります。 こうした悪習慣を根刮ぎ放逐する為には、修験道のような強烈な自己変革が必要かも知れません。 修験道は強制的な魂の変革(軌道修正)を行うのが主目的でありました。 しかし修験道にも利己的感覚に侵された人間が、我欲追求の手段として修験道を利用する輩も出て来たのです。 通常の人間には出来ない奇抜な能力を身に付けたいと修験道の世界に嵌まり込む人も居るのです。 これは間違いなく本末転倒であります。 悪しき習慣を自己啓発して改める為に修験道に取り組むなら、難行苦行は良き習慣を積み重ね身に付けさせるでありましょう。 其処にこそ修験道の存在価値を見い出さなければならないのです。 残念ながら現代人の多くは、修験道を超能力礼讃の如く歪んだ信仰として受け止めがちであります。 本来は滝に打たれるのは身を清め精神を強化する為であり、厳しい境遇に耐え忍ぶ強靭な心を磨くことが主目的であるはずです。 険しい山々を練り歩くのも足元を注意深く踏み締めながら山岳の強靭な神威と一体化して、悪意悪念に靡かない強き意志を身に付けることが主目的であるはずです。 人並み外れた能力を得たいという気持ちは、既に装飾の甘美な魅力に翻弄された迷妄心である。 その付着物を身に纏うことで利己的優越感を満足させたいという、内在の隠れた願望に対する執着が修験道に超能力信仰を求める迷妄に走らせるのです。 本来の純粋な正しい修験道を俗世意識で穢してはならないのです。 現代にも山岳信仰の対象として修験道が継承されておりますが、こうした修験道が正しい人格形成に付与するものであるのなら、山岳から街中に真理を持ち込んで、歪んだ人間意識を浄化する天職を担うべきであります。 |