091 自由と不自由

 

個性化が進んだ20世紀は、個人の幸せを追求することで生き甲斐を見い出してきた時代でありました。

その個人の幸せは自分の思惑通りの人生を生きることで、自由を満喫せんとする利己的な幸福感であったのです。

利己的な自由を行使する人が増えれば、そこには質の異なる自由意思の相剋が生まれ、その摩擦は衝突を繰り返して、双方ともに自らの意思を譲らないならば、自由と自由の相剋は、結果としてお互いに不自由な結末を呼び込み引き寄せることになります。

本来の自由とは何であるのか…。

利己的に生きることは善か悪か…。

不自由を感じる理由は何なのか…。

これらの疑問に答える為には、個性というものが本来は何であるのかを知ることから始めなければならないのです。

人間の生命は、遠い昔に創造主の御神体から枝岐れてきた生命体であります。

つまり実相の大神の分身分霊であります。

また自分以外にも創造主から枝岐れてきた個性体が無数に存在しています。

誰もが個人的な意識を持って生きる自由を与えられています。

これは万民が平等に与えられた神の子としての特権でもあります。

そうしてこの自由意思は自分にもあり他人にもあるのです。

そうした自由を何十億とも言える多くの人間に同時に与えられているのです。

そうであるのなら自分の自由意思を尊重することと同じ理由で、他人の自由意思をも尊重するべきである。

双方の自由意思が何方も譲らず、自らの利己心のみを頑なに押し通したならば、そこに現れる紛争は混沌を呼び覚ますのであります。

個人的な意識のみを押し通す目的で自由を求めるが故に、返って不自由な状態に身を置くことになる。

そうした不自由な状態を呼び込み引き寄せたのも、本人自身の心の法則(因果の理法)による自業自得の結末であります。

本来は自由を求める際には公私の区別を弁える必要があります。

だれにも迷惑を掛けない私心(自由意思)であるのなら、その自由意思の行使は善となります。

しかし貴方が公の中で、秩序や調和を乱すような利己的な自由意志を貫くならば、社会の統合意識(法律や制度)に身柄を確保されて、本人が自由意思を行なう度に、社会的制裁を受けて不自由な拘束を受けることになるのです。

つまり利己的な自由意思は返って不自由な状態を呼び込み引き寄せるのであります。

現代の社会には複雑な規制や旧来から引き摺る仕来りも多くあります。

その中で個人的な尺度(思惑)に拘り囚われる人間も多くなりました。

守るべき法規制がありながら個人的な見解で、此処までは良いだろう…とか、これ以上は良くないだろう…と得手勝手な自我流基準で生きている人も多いのが現状であります。

個人の自由意思が入り込む余地など見当たりません。

そうであるにも関わらず自分勝手な解釈で自由意思を行使すれば、人間関係に軋轢が生じるのは自明の理であります。

 

 

 

39 霊性開示 【新創世記編】