106 神は総善・人は独善

 

物事の良し悪しは千差万別の種類があります。

それは人それぞれの個性の違いであり、経験値の違いでもあるのです。

本人の個人的な意見は、当人の経験値からすれば正しい見解ではありますが、相手が変わり、時が移り変わり、場所が変われば全く通用しない偏見にも成り得るのです。

そのため今まで学んできた学識のみに頼りきると手痛い失態を犯しかねない…。

個人の意見は何処まで行っても個人の意見なのであります。

これも本人にとっては偽りなき正論ではありますが、個人の力量(知識)に拘るのなら自己主張の域を越えられないのです。

こうした個人的な正論は独善と言われています。

独善の押し売りは周囲に窮屈さを感じさせ、他者の正論を敗者側に押し込む愚行を起こしがちであります。

独善に入り込みがちな人間は自己中心的な性格の持ち主である。

他者の意見に聞く耳を持たない猪突猛進的な言動の持ち主である。

独善を貫くために他者排除を始めたなら注意が必要になります。

それは既に生身の人間としての心身の痛みが、知覚的にも分からなくなってしまった状態にあるのです。

意識の個性化は独善に嵌り込んだなら心は物質化に向かいます。

そうなると独善は個人に於いては善事であっても、社会人としては危険な悪事に成り兼ねません。

やはり人間は社会人としての大人の対応(公私の区別)が必要であります。

自分が良くても、相手の立場からすれば良くない場面は往々にして有り得ます。

経験から得てきた知識が相手には生かされない事実も当然のことながらあるのです。

つまり相手の立場を想いやる気持ちがない人は独善に嵌まり込み易いと言うことです。

さらに自分の言動を顧みる習慣がない人も独善に嵌まり込み易いと言うことです。

創造主は総ての心を把握された総善でありますが、神の子の自覚を見失った人間は独善である。

この違いが朧げながらにでも分かるのなら、人として反省回顧を怠らない貴方であれ…。

それが出来なければ神の子の自覚など程遠い状態であります。

徳性開発には日々の反省回顧が必須であり、自己限定の枠を超越した客観視がないと次元(魂心境)昇華は有り得ないのです。

現状把握をすることもなく、勢いだけで個人的な正論を畳み掛ける人間は、どれ程の知識が有ろうとも、如何程の技術が有ろうとも、独善の呪縛から逃れられない徳薄き人間であります。

独善者に公私の区別は期待できません。

何故なら自己意識最優先の迷妄者に公私の区別を説明しても、自らの善事に酔い痴れる迷妄者からすれば、公の中心には絶対者としての自分が居ると、何処までも迷妄意識が誤認しているからであります。

 

 

 

39 霊性開示 【新創世記編】