012 感覚 (自分の感性は自分用の尺度に過ぎない…) |
正しい自己確立を果たすためには反省(軌道修正)が必要であると語られました。 この反省回顧が無ければ、自らの間違った習性(魂の傾向性)に気付くことなく(気付こうともせず)、悪習慣の下り坂をズルズルと落ちて行くと言うことでした。 しかし暫し歩みを止めて我が人生を振り返り、静かに反省(道程の成果)を行なうにしても、自らの感覚が欲望願望に毒されていたなら、正しい反省など出来るものではありません。 感覚とは自分を中心とした感性である。 自分を中心とした感覚では物事の良否が掴める訳もなく、そうした人の感覚は殆んど利己的な我流感覚となっています。 我流の感覚では常に自分の立場を優先し、他者の気持ちなど顧みることもせず、自分の気持ちだけを優遇する自己中心的な感覚となっている。 つまり反省など出来る状態には無いと言うことです。 人間は感覚を超越しなければならない。 自分の感性は自分用の尺度に過ぎないことを知るべきであります。 これを知らずして正しい自己確立など有り得ないのです。 自らの感覚のみに囚われ拘っている間は、何処まで感覚を研ぎ澄ましても一次元意識の住人である。 自分の気持ちしか感じられず、自分流の人生しか見えない視野の狭い人間(一次元人間)であります。 地上社会は三次元世界であるにも関わらず、意識レベルは一次元(我れのみ在り)意識のまま生きているのです。 これは高度な徳性を身に付けた徳者からすれば、秩序の保たれた街の中に、我が物顔で原始人が歩いている姿に映ります。 また善良な市民の中に危険な猛獣が紛れ込んでいる姿にも映ります。 しかし彼(原始人・猛獣)も個性ある人間であることは当然であるが、社会秩序(公)の中で未だに自我我欲(私)を区別することが出来ない状態(幼い魂)に在ることを、高徳者たちには冷静に判断されるでありましょう…。 自己流の感覚のままでは彼は未だ一次元意識であると認定される時代が近付いております。 徳性開発が当たり前の未来社会に於いては、一次元意識レベルの人間は精神異常者として、心の治療を施される立場にあることを此処に予言しておきます。 人間は自らの感覚を超えて行かなければならない。 自分流の感性は自分だけの尺度に過ぎないことを思い知るべきであります。 |