014 尺度 (自己流尺度は参考値として尊いのである) |
思念によって自己の尺度は形成されると言うことでした。 自分の尺度のみに拘り囚われることを自己流あるいは自我流というのです。 我流の押し付けは周囲の人々に窮屈さを与えることになります。 この我流の厄介な所は、本人の経験から得た知識(我流)であるからこそ、反論を寄せ付けない程の信念にまで固まっている場合が多いのであります。 つまり本人にとっては偽りなき真実となっているのです。 しかしそれは本人の経験として得た時期と場所とに兼ね合った経験値である…。 人が変わったり、時が流れたり、場所が変化すれば起こらなかった事例(経験値)でもあります。 要するに人の数だけの真理があると言うことです。 自分の尺度は経験から得た知識であるから正しいと思えるのなら、他人の尺度も相手の経験から得た知識である。 そのような経験から得た相手の尺度にも自分と同じ市民権はあるはずです。 そうであるにも関わらず、自分の尺度のみが正しく、相手の尺度は間違っていると決め付けるなら、その決め付ける思いの狭さを単に暴露しているようなものであり、人間としても自分は窮屈な性格であると言うことを、自ら宣伝しながら醜態を演じていると言うことであります。 自己流尺度は参考値として尊いのであって、自己と他者の正邪を決する為にあるのではないのです。 自己の尺度のみに嵌まり込む者は、その尺度(知識)の中に身を沈める一次元の意識レベルに在ることを恥じるべきであります。 物事は一面ではなく多面性があり、本来は無数の解答が混在しているのです。 その無数の解答の中から、現在只今の心境に最も近しい解答を選び出すこと(最善を掴み出すこと)が、人間として育むべき徳性であります。 自らの尺度に拘り囚われる者は、本人が気付かぬ内に自己流尺度によって、周囲の人々を傷付けていることが多いのです。 しかしその事実に本人が気付かないこと自体が、未だ一次元意識の魂心境に止まっていることを証明しているのです。 一次元意識の人間には対話が会話にならない習性が見受けられる…。 それは自我流尺度(自己主張)に対する歪んだ信仰心であり、優越感を得る為の心の喝欲であります。 |