021 思念は自分を中心にした思い

 

 

思いというものは田の心と書いてあります。

田という文字は、枠(口)の中に時間(縦軸)と空間(横軸)が交わった接点がありますが、その接点を中心にして自己展開する心が思いなのです。

すると思念というものは自己展開する心を今の一点に集中した意識であり、凝縮された思いは其れなりのパワーを発揮するのです。

この事実は人によって程度こそ違いますが、万民が魂の本質として内在する真理なのであります。

しかもこの内在のパワーは善悪の種類に関わりなく、何事にも通じる凝縮念(パワー)であり、其処に信念の固さや深さなりの力量が発揮されることになる。

そうなると思念の使い道に、人間としての徳性が問われるのであって、力量の強さや破壊力の大きさよりも、凝縮念を善事に扱える人徳にこそ、人間としての偉大性や尊厳が見え隠れするということであります。

また思念が能動的な意識である以上は、その思念を発揮することに於ける責任も、全て自己自身にあると心得なければならない。

自由意思には責任が付き物である。

主体性に於ける責任転嫁は甚だ自主性に欠けることに気付かねばならないのです。

自由意思は完全な主体性である。

遣りたい放題したい放題の我儘を尽くせば、その結果そのものも甘んじて受け取らなければならないのです。

これが想念ともなれば、相手の言動にも影響されて自己自身の心が揺れ動くことも有り得ます。

二次元意識の魂心境を心に有する人間は想念が主流を成しているため、一次元意識人間よりは他者の気持ちを介することが出来るが、大抵の二次元意識人間は自己限定の克服が難しい状態であるので、受動的な想念が、何時しか能動的な感覚に摩り替わって、自己反省が出来ないどころか、何時の間にか矛先が変えられて、他者批判や他者否定の悪習慣が身に付いてしまっています。

こうした人こそ下向き(一次元意識に向かっている)な二次元意識人間である。

自己中心的な性格が心に根付いてしまうと、自己限定(一次元意識)の殻の中から自力で這い出すことが難しくなります。

そうした一次元意識人間や下向きな二次元意識人間は、自分は潔白で些細な汚点すらも無いと言い切るでありましょう。

彼らは誠に情けない状態(低俗)のまま三次元社会に生きているのです。

 

 

 

  42 むすび大道 【相対原理編】 二次元