051 学徳とは人間真理を学ぶこと
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徳という文字は行ずる十四の心と書いてあります。 徳性開発を学ぶということは、十四の心(実相理念)を学ぶということです。 しかも行ニンベンが付いているのであり、これは行動を伴なう学びでなければならないと言うことです。 然し乍ら徳性開発に於いても魂心境に応じた段階があり、得度(自覚)に応じた階梯があるのです。 個人的な悟りを求める段階は一次元意識であり、この段階では個人が認める範囲内での学びに過ぎません。 しかし単なる学習とは違い、実践が伴ってこその学徳であります。 善行を積み重ねながら貴重な心の糧を得る段階が一次元意識の学徳になります。 徳性の階梯としては初歩には成りますが、知識としてのみ徳を知る者が多い昨今、行動が伴わない思い付き人間では徳性は何も始まらないが、徳を進んで学び、知り得た知識を生かして使うことが出来れば、例え其れが個人的な学徳であったとしても、二次元意識に繋がる基礎研鑽には成り得るでありましょう。 先ずは徳を学び、その徳を地道に行ってみることです。 実践に移してこそ単なる知識が学徳(知恵)となる…。 故に徳性開発に於ける魂心境の基礎は学徳になります。 人生には魂の学びが溢れています。 自分の存在のみしか見えない我儘人間も多いけれども、その我儘でさえも途中経過となれば尊い学びであります。 失敗は成功のもと…という言葉が有りますが、目先の失敗に落胆して、その後の努力精進が疎かになるなら、そうした人間は未だ魂心境が一次元意識に留まったままの状態であるのです。 なぜ失敗したのか…。 何が間違っていたのか…。 自我という観点からも学べることは多い筈です。 自分勝手な振る舞いが及ぼす結果を素直に受け止めることは学徳である。 思い込みで突っ走った結果を素直に分析する姿勢も学徳である。 思い通りにならない気持ちを実感することも魂の学びとなる。 何故…という疑問符を持ち歩き、どうして…という探究心を発動させ、どうすれば…という前向きな対抗策を思案することで、学徳は徐々に育まれて行くのです。 徳のない一次元意識人間は浅い思考に留まって、最初の何故すら浮かばないまま、思い通りにならない憤りに心が膨れ上がるのであります。 |