053 個人的な学徳は未完成な人間
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学徳が目指すものは、人間関係に於ける道徳を育むことで、人間社会に通用する人徳を形成することであると…。 そうして現代の地上世界に足りないものは、人を導くことが出来る人格者の存在であると言うことでした。 現代社会には徳育という概念すら薄くなっております。 個別主義が蔓延した人間社会には、個人的な幸福の追求が常識とされているようです。 様々な個性が乱立する現代社会に於いては、個人の幸福追求が自我力のまま押し通されたなら、個人(自由)と個人(自由)の相剋(摩擦)が起こるのは当然の理であります。 個人的な自由意思は、誰にも迷惑を掛けない範囲でのみ許されることであって、それが例え善意であったとしても善意の押し売りは迷惑行為以外の何物でもありません。 それは自分の気持ちのみしか見えない(感じられない)迷妄者の行動パターンであり、彼らは自分が行なっている迷惑行為の意味を、あまりよく分かってはいないと言うことです。 その迷惑行為の意味を本当に分かっているならば、最初から迷妄者の如き行為はしないのです。 分からないからするのである。 分かろうとしないから分からないのである。 自分の気持ちだけを尊重し優先すること自体が、未だ未熟な魂心境に留まっていることを如実に物語っているのであります。 世の中には優秀な人が多く存在しますが、その優秀さは技術的な優秀さや学術的な優秀さであり、人間としての魂心境の優秀さではないのです。 知識だけ多くとも、その知識の正しい使い分けが出来なければ、返って知識は本人の魂にとって足枷となります。 腕力や権力ばかり強くとも、その腕力や権力の正しい使い分けが出来なければ、返って人格を堕落せしめる道具にしかならないのです。 貴方は個人的な優秀さを履き違えてはならない。 個人的な学徳は未完成な人間に留まるだけである。 個人の思い付きを他人に押し付ける行為は学術以下の問題なのです。 社会人である以上は、人間関係に於ける道徳をこそ身に付けるべきである。 それが脱一次元意識・脱二次元意識の最低限の条件であります。 |