059 社会人としての道徳性を学ぶ
|
自己反省が出来ない一次元意識人間、自己反省が苦手な二次元意識人間も、自我尊重に拘り囚われる魂心境を脱すれば、公的意識としての三次元意識人間となって、立派な社会人としての立ち居振る舞いが出来るようになるのです。 その為に必要となるものは相対的な人間関係であり、その関わりの中で相互に学び合うものが道徳であります。 人として正しい生き方は如何なる生き方であるか…。 社会人として正しい在り方は如何なる在り方であるか…。 これは自分以外の多くの人々の生き方や在り方を学ぶ事によって、徐々に大切な何かを取り戻す(掴み取る)訓練をすると言うことです。 人間は一人きりでは徳を育むことすら出来ない生き物です。 愛は相手が居て始めて成立する感情表現である。 相手が居るからこそ様々な葛藤も生ずるのです。 その葛藤に対して前向きに取り組んだ者は、一つの経験値として愛の多様性を道徳として学ぶのであります。 人の数だけの価値観が有ると言うことは、人の数だけの誤解と曲解も存在すると言うことです。 その時に相互理解の努力なくして、お互いの意見を歩み寄せる術はありません。 自分の意見に賛同しなければ敵対関係になるような狭い心では、意思の疎通など夢のまた夢である。 思い通りに行かない気持ちが心を苛つかせ、抑えられない感情(衝動)を周囲に当たり散らす行為は、我儘な幼な子の癇癪した姿と同じ種類の意識レベルである。 自分流の独学(個人の尺度を基準にした)では見えない風景があることを知らなければならない…。 複数の人間が同じ環境下に居ても、それぞれの心境差によって見えている風景は違うということ。 魂心境(徳性段階)を高めなければ、自分の周囲(自己尺度)しか見えない事実を知るべきであります。 社会人である以上は公私の区別は必須項目である。 凡ゆる場面で公的意識を弁える事が出来るなら、自己認識に拘り囚われた魂の呪縛から解放されて、脱二次元意識は速やかに果たされるのです。 この公的意識(公私の区別)の詳しい内容は、新創世記43巻『多角心理』にて語られております。 |