076 相互理解と誤解曲解の境界線
|
自我尊重に拘り囚われる人間(一次元意識・二次元意識)は、イジメやセクハラ・パワハラ等の加害者側に立っている自覚が無いと言う事でした。 犯罪者としての自覚のない者が罪を重ねたなら凶悪犯罪になってしまう。 こうした危険なリスクを自我尊重(一次元意識・二次元意識)は心に隠し持っていると言う事でした。 自我という個別の尺度は本来は自分にしか通用しない自己基準であります。 それは経験や知識によって培われたものであっても、自分流の自我意識に他なりません。 従って其の自己基準は、時に他者にも当て嵌り、時として他者には全く通用しない偏見とも成るのです。 こうした自我流が良いとか悪いとかを篩に掛けることは不毛ではありますが、人間の徳性は経験と知識を、直面する課題(相手と時期と場所に応じた対策)に対して、最も適した智恵と教訓を使い分けることこそが、他者との本当の共感を得る為の王道であると言う事です。 相互理解は他者認識(相手の魂の傾向性を知る)無くしては成立しない。 自分本意の拘り囚われを押し付けるだけでは誤解や曲解を招くだけである。 たとえ自分が良かれと思って言動を重ねても、そこに相手の立場を思慮(なぜなのだろう)考慮(どうしたらよいか)配慮(これならよいであろうか)するプロセスが無いならば、自我意識は単なる自我尊重(自己中心)でしかないのです。 このように相互理解と誤解曲解の境界線は他者認識で思考を重ねた結果であるか、自我尊重で押し通した結果であるか…を、冷静な心の瞳で観れば一目瞭然であります。 他者認識の延長線上には慈愛が存在しますが、自我尊重の延長線上には憎悪が待ち受けています。 慈愛には寛容な精神が育まれますが、憎悪には排他的精神が増幅するのみであります。 人間の感情には理解と誤解の両面がある…。 何方の方向に心の針が向いているかを知れば、二次元意識段階の魂心境が上向き(三次元意識に向かう)であるか下向き(一次元意識に向かう)であるかを自己分析(現状把握)することも出来るのであります。 こうした見解から見ても反省回顧(現状把握)と心の浄化(軌道修正)は、脱一次元意識・脱二次元意識には必須項目となるのです。 |